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昔の台北日本人学校 

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高坂知武先生 大昔になりますが私が台湾に居た頃(1950年代末)、台北の日本人学校の人数は小学生が20人ほどで中学生が3人でした。小学生は台湾大学の教室を借りて、女の先生1人が全学年を教えていました。 中学校は台湾大学の教授である高坂知武先生が自宅を開放して週何回か教えられていました。 高坂先生は高名な学者で →台湾大学の先生の記念館 には先生の事績が展示されています。言語は中国語ですが当時を生活を思い出させるたくさんの写真があります。 兄と姉が教わっている時、ご家族で催された演奏会に生徒の家族たちが招待されました。庭が見える明るい居間でピアノ三重奏のようなものを聴き紅茶とケーキを頂きました。 この居間で楽器を手入れされる先生の写真が記念館にあります。写真では楽器の手入れでごちゃごちゃしていますが演奏会の日はほんとうに綺麗で広さにびっくりしました。 先生は台湾大学交響楽団、合唱団の創設と育成にも尽力されました。

日本語指導員

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友人が中国に帰ることになりました。そして彼女がやっていた日本語指導員(教育サポータ)の仕事を引き継ぐことになりました。 サポートするのは小学校の4年生です。まだ日本に来てから数ヶ月しか経っていない男の子です。日本語はほとんど話せません。でも授業について行ける学力は持っています。 友人は中国では小学校の先生でした。そのおかげで来日半年足らずのあいだにこの子の言葉のギャップにかかわらず教育の継続を成し遂げていました。 引継ぎのために3日ほどその友人のやり方を観察しに行きました。そしてこれを続けるには並大抵の精神力と体力では足りないと感じました。 小学校の4年生の授業とはすさましいものです。私のように社会の淀んだ池の中を漂っていた水藻のような脳みそにとって、それは突如沸騰するビーカの中に投げ込まれふっとうする泡にこづかれ行き場を見失うようなものです。 ハイテンションな話し声、教室の端から端まで飛び交う話、分からない短絡的な子どものことば、さらにそれを取り仕切る先生の大きな声がまじり、私の脳みそは意味をさがしてウロウロとよろけて、ついにはストンと暗黒の中で倒れるのです。 子供の世界はまさにブラウン運動です。 ***

Lexileで伸ばせTOEICリーディング

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口語のレベルに関しては英語通訳をしている間にさんざん考えさせられました。その結果私は →FSIのL3レベ ルにいることが分かり今後は米語の発音に慣れることが大事だと知りました。 つぎは読解力です。 TOEICで調べる手もありますがしかしあの鬱陶しい2時間を過ごすかと思うと、時間もお金ももったいないような気がします。翻訳会社も実績重視でTOEICの点数を気にしている様子はありません。 *** そこでTOEICを受けずにTOEICのリーディングの得点が分る方法はないかとウェブで捜しました。 ありました。それが→ Lexile レベル* です。調べ方 は簡単です。TOEICのリーディングの点数を入力するとLexileレベルが出てきてあなたにふさわしいレベルの書籍を教えてくれます。 *このリンクは最近切れています。理由は分かりません。* その書籍リストの中に最近読んだ本が入っていましたので私のレベルはこの辺りだと思います。 *** Lexileレベル1300L-1395L 『 1776: America and Britain at War But from this point on, the citizensoldiers of Washington's army were no longer to be fighting only for the defense of their country, or for their rightful liberties as freeborn Englishmen, as they had at Lexington and Concord, Bunker Hill and through the long siege at Boston. It was now a proudly proclaimed, allout war for an independent America, a new America, and thus a new day of freedom and equality. At his home in Newport, Nathanael Greene's mentor, the Reverend Ezra

英語通訳を終えて 5/5

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祭りの間のひと休み 期間 2ヶ月半 実働45日間 にわたる の英語通訳の仕事を終えて ほっとしています。 当初中国語が専門だから英語の通訳がこなせるかどうか大分心配しましたが →ブログに書い た通り慣れとコツをつかみ何とか最後までやれました。 最後には 通訳を始めた当初はまったく聞き取ってもらえず苦虫を噛みつぶしていた人に「あなたが通訳をしてくれたことに感謝している」と言われた時は本当にうれしく思いました。 今はもうなせばなるという気分です。 最後に雇ってくれた会社の人に「ご迷惑をお掛けしました。最初からこのくらい話せたら良かったのですが」と言うと相手もうなずいていました。 今ならば自信をもって英語通訳の仕事が引き受けられるのですが次の仕事は中国語です。長期にわたる仕事ですので今後 このプロジェクトに加わることはむずかしいでしょう。 「これからもと思っていたのにそれは残念です」と言われた時、あぁなんとか英語通訳のハードルが越えられたと思いました。 ***

L3 シンドローム 口語の壁 4/5

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語学専攻上級の到達レベル 実際に日本人は口語でネーティブのようなレベルに達することが可能でしょうか、今回の通訳をしていてそれはとても難しいと感じました。 そして TOEIC Research Report  Kenneth M. Wilson 1989でそれを発見しました 。 日本の英語学習でよくネーティブ並の発音とかTOEIC満点は教養あるネーティブのレベルなどと言いますが実態は全く異なることを参考にしたレポートは語っています。 図はアメリカ人のフランス語専攻学習者の到達限界を示しています。 フランス語は英語話者には学びやすい言葉ですから 日本人の英語学習の到達限界はこれよりやや劣るようです。このように外国人がいくら外国語を学んだとしても口語に関しては L3レベルでほぼ限界に達してしまいます。 ちなみにこの論文の主旨はTOEICの得点とFSI/LPIという口語評価レベルとの関連性を調べておりL3レベルは最低でもTOEICの総得点815点以上、リスニング450点以上のハイレベルだとしています。ちなみに総得点900点以上でもL3に留まっています。 つまりこれは口語の壁です。対象言語の国で生まれたか、両親が対象言語の国の人であるなど特殊な条件を学習者が持たないかぎり、L4以上に到達するのはほぼ不可能なようです。 私が 初めてTOEICを受けた時総得点は750点でリスニングは450点でした。 それから今まで約10年間に4回受けましたが、総得点は755/815/830/850と増えましたが、一方リスニングは450/425/425/450点と変わりません。TOEICの得点は25点以内は変動範囲です。リスニング450点であればL3レベルですので私もL3の壁にぶち当たっていたのです。 L3からL4へのステップはとてつもない大きなステップで、ほとんどの人は超えることはできないとされています。 しかし越えることができないわけでもありません。 私の場合、今回の通訳で感じたことはアメリカ英語に対するヒアリングの悪さです。最初はほとんど聞き取ることができませんでした。イギリス英語は比較的なじんでいますので聞き取りが容易ですが米語には慣れていません。どうもその辺りに私の弱さがあるようにです。 言葉は強い部分が弱い部分を引っ張り上げることが

語学の壁をつき破れ

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From Higgs+and+Clifford+1982 →前回は自分の通訳経験を書きました 。今回は語学学習の壁について考えてみます。 参考に →L3 シンドローム 口語の壁 を別のブログに分けて書きます。 英語の勉強をしていると何度か壁に突き当たります。学習を続ければ突破できますが、しかし困難なステージがあります。それが「化石化」です。 *** 図はアメリカ国務省やCIAなど外国語専門家を必要とする部門で働く教師55名の意見を反映したものです。彼らはまずは語学研修者をL3レベルにまで高めようとします。L3レベルはTOEICなら815点以上のレベルでこの段階に達すれば一応安心して現地に送り込むことが出来るからです。 ところがほとんどの学習者は期待に反してL3レベルにまでは達せず、「L2/L2+」(TOEIC500~805)の段階で止まってしまいます。これを彼らは「 L2 Terminal  シンドローム」と呼び、ここには化石化が関わっていると見ています。 *** 海外へ派遣したい要員ですから選抜時にはその国の言葉を実践で覚えたか、ある程度学習した経験があるでしょう。「化石化」とはその学習履歴の後遺症なのです。 アメリカの移民労働者や海外で働いて実践だけで言葉を覚えた人は外国語を体系化できずに自分の理解で言葉を組み立ててしまいそれが化石化することがあります。そうなると正しい体系を学んだとしても新しいもの受け入れられなくなります。 これは学校教育だけで語学を学んだ人にも起こります。その人を教えた教員の文法知識が未熟だった場合、間違って教えられたものがそのまま「化石化」してしまいます。それが英語を教える語学教師の研修生にさえ現れた例もあります。 例えば単語ばかりだけをやたらと暗記させられて文法はしっかりと教えてもらえなかった為に化石化してしまった例がそうです。このような人はたいていL1(TOEIC500以下)止まります。 日本人にも当てはまるのではないでしょうか。 では化石化した学習者を救えないのでしょうか。 私はL2/L2+のレベルで壁に突き当たってしまった人たちの 弱点が語彙と文法に集中している いう点に注目します。 化石化に対抗するには化石を破壊する必要があります。その方法が多読です。多読すれば普段は触れな

翻訳料金と品質と作業時間

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日本翻訳連盟の白書より編集 前回は →Tradosを使ったGoogle翻訳の取り込み方 を説明しました。 Google翻訳の日英・英日の精度はせいぜい50%程度のものです。天気予報のように当たるかどうか分かりません。それでも使うのは単語のヒントや数字の写し間違いを防ぐためです。 *** さて翻訳とはどの程度のかせぎになるのでしょうか。 以前にも言いましたがサラリーマンになって社内で翻訳もして営業もこなすような仕事の方が収入はぐっと高くなります。しかし色々な理由から在宅で仕事をしたい。人とのつきあいが苦手な人もいます。そのような場合、どれほどの稼ぎが期待できるでしょうか。 翻訳料金はピンからキリです。 翻訳の質にもピンからキリがあるでしょう。しかし翻訳会社が受注する価格も個人翻訳者が受け取る価格も大体の範囲があるようです。今回は私が加盟している日本翻訳連盟の2013年度版の翻訳白書から考えてみました。 これによりますと、翻訳会社が企業から英文和訳を受注する単価は、日本語訳文400文字で2500円から4000円とあります(54%がこの中に入ります)。その中間値は 3250円 です。 一方の和文英訳は原文日本語1字が13円から17円未満が一番多く、平均を15円としますと、400文字の日本語原稿は英語に翻訳されると 6000円 になります。 400字の日本語でみると英和は3250円、和英は6000円になります。 翻訳会社に納入する個人翻訳者の納入価格はとなると、私の経験も含めての算定ですが、英文和訳が1760円、一方の和文英訳は3200円になります。英文和訳も和文英訳も個人翻訳者が翻訳会社から受け取る金額は翻訳会社が顧客に納入する価格の大体54%になります。 400字の日本語でみると英和は1760円、和英は3200円です。 *** 翻訳会社の費用: 翻訳会社は個人翻訳者の訳したものをそのまま顧客に納入する訳ではありません。 会社が雇っているチェッカーが居てチェックをしているはずです。その代表的なものがネーティブチェックです。翻訳会社がネーティブチェックを含めて校正にいくら使っているかと言いますと、ネーティブチェックは平均で400文字の日本語に対し校正をも含めて1870円というのが翻訳白書に書いてある相場です。それに基づき

口先英語で発音改善 3/5

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→ 前回は場に慣れる で通訳は慣れることが大事だと書きました。しかし相手に分からせるにはやはり発音が大切です。 *** 2週間が経過してなんとか場には慣れてきました。ところが私の言っていることはあまりアメリカ人に通じないのです。そんな行き詰まっていた私の前に現れたのは帰国子女の人でした。 その人は顧客の会社の人で今回のプロジェクトの関係者でした。 *** 私が相手するアメリカ人ときたら、どこからそんな音を持ってきたのかと思うような発音をします。口をモゴモゴと言わせ、口の中で音を転がしているような音をだします。帰国子女の人もそうです。口をあまり開けずにモゴモゴと話をします。 帰国子女の人はアメリカ人と同じように話しますがそれでもやはり日本人なのでしょうか母音の終わりは多少明確に感じます。これなら真似ができるかもと思い彼の発音のまねをしてモゴモゴと口の中で話をするようにしました。ところがそうはうまくいきません、もともとモゴモゴと口の中で話をした経験がないからです。 このような複雑な動きに慣れていませんから舌がもつれました。頑張っては見たものの結局2日ほどであきらめました。音韻図で示すような口の中の舌の動きができなかったからです。しかしこのままでは解決にはなりません、そこで発音する時の口の中の動きを考えずに口先だけで小さく発声するようにしてみました。 口をすこし開けた状態で口をすぼませ、唇と舌だけを動かして話をします。 こうするとなぜか単語のキレが良くなりました。しかも最後まで口をつぼめているので母音の発声がしにくくなりその結果より米語らしい発音ができます。 さらにより米語らしいアクセントを出すために通じなかった単語は図の 「Webster Word Power」 のSpell-outというアルファベットを使った発音記号でアクセントを確かめています。 例えばAcademyならSpell-outでは[/a- ca -de-mee/]になります。これは主アクセントが -CA - だけであることを示し-CA-以外の母音は曖昧に発音せよとも解釈できます。 この場合、私は[/a-]は口の形だけで小声で「ァ」が聞こえるかどうかの音で発音しあいだを開けずに[ca-]を「カア」としっかりと発音してそれから[de]は弱くすぐに[m

通訳の場に慣れる 2/5

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Lion on JBL →前回 英語初通訳 英語の通訳を始めて2週間がたちました。 英語では2週間のことを「Fortnight」と言います。大怪我や大きなショックを受けた時、2週間は回復したり落ち着くのにちょうどよい時間のようです。私の初通訳も2週間がすぎると大分落ちつきました。 *** 1週目はさんざんでしたが 幸い2週間目に入ると少しは改善がみられるようになりました。 当初中国語通訳のスタイルに引っぱられ、話の内容を一旦聴き終わってから訳そうとしました。それは無理でした。構文が作れないのです。 2週目にはいるとそれが無理だと分かり小刻みに訳すことにしました。主題や動詞句などが出てきて訳せるカタマリが出来ると、発話者が区切るのを待たずに訳してしまうのです。ちょっと切れ切れですが同時通訳のように発話に重ねて訳せば構文はぐしゃぐしゃでも伝わるようです。 それ以外にも以下の変化がありました。 ① 聞き取れなかったアメリカ人の質問はかならず聞き返すようにしました。 うっとうしいようですが前をちゃんと訳し終われば次の話題の精度が高まります。 ② アメリカ人の方も何人かが私の実力を見極め、ちゃんとSVO型で話をしたり、主題を提示するようになった。 アメリカ人も見切ったのでしょう。これはだめだ。ちゃんとしたテキストで話さないと分かってもらえないと思ったようです。彼らもちゃんと話せばこちらも大分聞き取れます。 ③ 過去に日本企業に務めた者が私の発音でも聞き取って仲間に説明をしてくれるようになりました。 日本人の話す英語に慣れた人であれば聞き取れるという事は私の発音もまんざらめちゃくちゃではないという事です。 ④ 話の長い日本人には、話し中でも遠慮なく「ちょっと待ってください」と間を入れて通訳をするので、段々と話を短くしてくれるようになりました。 *** このように慣れることにより、通訳の場ではあまり緊張せずに済むようになりました。相変わらずスムーズに通訳はできませんが、慣れることによって少しずつ自分のペースで訳せるようになりました。 次回 →発音を改善する

英語初通訳 1/5

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アメリカの孫とサウザンアイランドで 英語通訳の話がありました。 中国語が専門ですから英語での経験はありません。ましてや私の英語は独学でしかも 読学 だけで鍛えた英語です。通訳はとても出来ないと思っていました。 こんどの話しは純然たる日米通訳です。しかも数ヵ月にわたる長期の仕事です。登録会社には専門ではないからと断りました。翻訳ならば時間があれば対応できます。しかし通訳は瞬時が勝負です。とても出来ないと思っていました。 *** 通訳の主流は女性たちです。それで会社に彼女たちに頼んで下さいと言ったのですが、ところが彼女たちは工場内のアテンドは好まず、会議での通訳ならやりますが……と会社は断られたそうです。それで私におはちが回ってきたのです。会社もできることなら私を使いたくはなかったでしょう。 とは言え、英語の通訳の経験がない人間にこのようなチャンスはめったにめぐってきません。もしこれを逃がすと次はないだろうとその時思いました。やれるかどうかの自信は全くありませんが、まぁ、自分の実力を見極める良い機会だとして引き受けました。 *** 実践 初日はやはりさんざんでした。 初日は滞在中に守らなければならない入管の注意を通訳するように言われていました。 説明には対訳のテキストがあるから何とかなると思っていました。ところが説明者はテキストを離れて日本語で内容を説明をはじめたのです。 こちらはそれを英文テキストの中から探しだそうとしますが見つかりません。しどろもどろで言葉をつなぐ私にアメリカ人は当惑します。私の言っていることがほとんど分からなかったはずです。 つぎに日本人の説明者が「テキストを見て下さい読んでいきます」と言った時にはホッとしました。 私は最初は説明者が日本語で読むテキストを書いてある通りに読んでいましたが、書いてあることと同じなので読むのをやめました。ただ説明者が時々行う解説をテキストの英語から抜き出して自分が言える範囲で訳しました。 アメリカ人には、私の言っていることはほどんど分からなかったようです。ただ説明者が「この内容は退屈だから寝ててもかまいませんよ」と言った時はうまく訳せたので爆笑もありました。そうしてなんとか一日目を終わらせることができました。 一日目が終わり、「明日もよろしくお願いします

最低限を満たすタブレット

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My Kindle 大型パソコン一台に頼って仕事や遊びをすべてこなして来ました。 23インチタッチパネルモニタ / i7 CPU / 8Gメモリ。3年前に購入した型落ちとはいえ 今だこのスペックを超えるパソコンに はめった出会いません。 なるべくIT関連は節約したいと思っています。パソコンで済まされるならこの一台ですべてをすませたいと思っていました。 *** Kindleを買おうと思った経緯: *** 少し前、急ぎの通訳を頼まれました。 10時過ぎに電話があって、昼休みの間に先方に到着して通訳を交代してくれというのです。 午前中は商談でしたが、 急に 午後から技術的な打ち合わせが必要となり技術が分かる通訳を寄こして欲しいというのが先方の要望でした。 急な話だったので、相手先の住所と電話番号を聞くとすぐに家を出ました。 普通なら 住所をGoogleMapで確認してから出ます。しかしパソコンを立ち上げる時間さえも惜しかったので、メモだけを持って家を出ました。 会社は線路沿いにあり、 駅から歩いて10分ほどの距離に あると聞いていました。 駅に着いて駅員に確かめるとたしかにそのようでした。時間的に20分ほどありましたので、コンビニでおにぎりを買って昼をすませてからゆっくり歩いて行きました。 春の暑い日でした。背広を脱いでいても歩いている内に額にうっすらと汗が浮き出てきます。 10分ほど歩いたところ、そのような会社はどこにもありませんでした。 そこにあるのは日通の大きな倉庫群でした。 もう時間はあまりありません。焦りながら先方に電話を入れて、数回も確認してやっと到着したのは、日通の倉庫群の裏の、さらにそこからもう一度横に入った場所にある会社でした。 この時ほどiPhoneを持っていたらなぁと思ったことはありません。しかしほとんど電話を使わない私にとって月2500円以下で使えるガラ携から乗り換える魅力はほとんどありません。 *** そこでこのような事態に対処するためにと最低限Wi-Fiで使える端末の購入を検討しました。 *** まずは目的を明確にしました。 1) 値段が安いこと: iPad-airまではなんとか買えるが、iPadである必要があるのか。 2) 家のWi-Fi環境で使えること: 家には

大阪好玩處 彌生人

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徐福渡海圖  朋友們你們到大阪除了買東西,去電影城,有沒有想到你祖先,特別是江浙或者從膠東半島來到日本以後的生活嗎。 圖是徐福帶三千男女來日本圖,當然這只是一個神話。但是,至少有三千個男女來到日本,而是在3000年前,比徐福來日本早800年,那些人叫做彌生人 ,安倍總理也是他們的後代。 從關西機場到大阪,如果你乘坐JR到天王寺,中間有個車站叫信太山 (Shinodayama),你的快車可能一瞬間而過,但是如果你膩了買東西,你可試一試用半天時間去訪問你的3000年前的老鄉,生活的怎麼樣,住的怎麼樣,並且欣賞一下大阪的鄉間風景。 從JR天王寺車站到信太山 (Shinodayama)只需要20分鐘左右的時間,但是小心,在鳳(O-TORI)車站要轉乘慢車。大阪彌生博物館和池上曾根遺跡就在信太山車站走路700米的地點。 你一下信太山,就要穿過鐵路交叉口,馬上就發現馬路上鋪著黃沙石,這是為引導參觀客人到遺跡和博物館。 通道兩邊是一個獨特的日本房屋,牆壁的木材都是燒焦的,這並不是火災燒過的,而這是傳統燒杉板壁,把杉板事先燒焦以防木牆腐蝕是老傳統的日本板料。 正在你觀賞這些老房子和門前的花兒,就到了池上曾根遺跡了。 池上曾根遺跡是回复當時村子原狀的一個露天展覽,離開遺跡不遠處就有博物館,只要你稍微事先了解了彌生人,我想這個地方可以給你提供和一般日本遊完全不同的經驗。 我是送人到關西機場後回路去的,從關西機場就要40分鐘,在和泉府中(Izumifuchu)站轉慢車。一站就到。

The Museum of Yayoi

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Ikegami-Sone Ruins' Big Well and the God house Just 20 minutes from downtown Osaka, you can get the answers, where the iron-age Japanese came from, what culture related to the ancient China and Korea; How they were living during the period of BC800 to AD300? Except getting those answers, you also can get a relaxing time in an open air village where reproduce the life of the ancients, Yayoi people; and there is an attached →museum let you understand what Yayoi means. *** The Shinodayama station, 信太山, is a JR station of Hanwa line, located in between the Kansai Airport and Tennoji station. After you exit the station, you should cross the railroad crossing. As soon as you crossed it, you will find a road paved with yellow sandstone, which lead you to the Ikegami-Sone Ruins and the Museum of Yayoi culture. The yellow road are sandwiched between unique black-walled old houses, which are made by baked cedar board, the carbonized board to protect the wood wall from corros

東北人 開墾魂

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商談が終わり契約を待つ茶メガネの私1988年 中国人について考えてみたいと思います。 中華人民共和国の中国人に接したのは1973年が初めてでした。 その人たちは中国東北にある鞍山製鉄所から神戸製鋼所に発注した設備の検収のために半年ほど神戸の華僑が持つ洋館に住んでいました。 それまでは大陸から来た人たちと言えば、子供の頃台湾で出会った国民党系の人たちです。彼らはどこか暗くて、プライドが高く、日本人の子どもである私は、お近づきをするにはちょっと怖いなと思いました。 ところが神戸で出会った鞍山の人たちは底抜けに明るくて、友好的で、宿舎としていた神戸の洋館の庭でバトミントン大会を催したり、餃子パーティに招待してくれたりして、台湾で聞いていた「恐ろしい共産党員」のイメージとはほど遠いものでした。 彼らが日本に来たのはその年の春でした。日中の国交が回復したのがその年の9月でしたから、それまでは公安警察がつねに身辺につきまとい、周辺がピリピリとしていた時代です。しかし彼らは至って平然として生活をエンジョイしているように見えました。 このような人たちの根底には何があるのでしょうか。それについて考えてみたいと思います。 *** 鞍山製鋼所の人たちは東北人でした。 中国の東北人について、魯迅は「北方の人間の良さはその重厚さにある、だが重厚さは往々にして愚にとられかねない」と言っています。もう一人の文人の林語堂は「素朴な思考と艱難辛苦な生活に慣れた、背の高い、身体が強健な、熱情的でユーモアに富み、大葱を好み、冗談が好きな人間」と表現しています。 私は1987年から1989年のあいだ延べ2年ほど東北三省の都市の電話局に電子交換機を売るため行き来したり長期滞在することがあります。 私が接触した東北の人たちも魯迅や林語堂が言っているような人たちでした。しかし商売のやりとりとなるとまた違うものを感じました。 「北方の人間の良さはその重厚さにある」ということは軽薄を厭うということで説得がむずかしいと言う事にもなります。口先の理屈では話が通じません。絶対的な現実が必要ということです。 しかも相手は旧満州時代日本語を学んだ可能性があります。日本側の説明の中にあいまいな点があると、かならずそこをついてきます。さらに「愚(直)」ということを武

名前でみるヤマト王朝

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古事記 歴代天皇 新唐書の東夷伝には日本の使者が高麗に日本の国名の変更を求める箇所があります。 「咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」 「咸亨元年(670年)、日本は賀平という名の使者を高麗に送り、中国語を学習させます。そして「倭」という名前を嫌い、日本という名に変更します。その使者の言うことには、わが国は日の出に近いゆえにそう名づけた。あるいは日本という小さな国があったが、倭に併合されたのでその名を使うことにした。」(と使者は説明します。) 実際に日本が唐に国名の変更を申し入れるのは、則天武后の時代です。 賀平が中国語を学び「倭」の意味を理解してから20年以上後になります。当時の唐の皇帝は女帝の武則天でした。彼女は日本も女帝の持統天皇であることを知って日本に好意をもっていたので、国名変更はスムーズに行ったという逸話があります。 この話が本当であればヤマトという名前は本来は縄文人がつけた名前である可能性があります。 表は古事記の歴代天皇の名前の構成を分けたものです。 個々の名称を辞書やWebで確認しましたが、ほとんどが分からずじまいでしたから、独断での構成になっています。 この表で見ますと初期の頃は男性を表す「ヒコ」が使われています。 「ヒコ」がなくなることに「ワケ」が出てきます。 →「ワケ」 は国名の最後につきますから地域とか国の意味だと思います。そうであればその地域の豪族の名前かも知れません。事実この「ワケ」がつく時代を河内王朝の時代として王朝交替があったという学説があります。 「ヤマト」という名前は「ヒコ」の時代にはたくさん出ますが、その後は清寧天皇に一度現れただけでその後はありません。

国生みからみる弥生時代の勢力図

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国生み 接頭辞順 イザナギ・イザナミのミコトの国生みでオノゴロ島と水蛭子、淡島の後に現在の日本の島々が生まれました。その順番は一見秩序はなさそうですが、しかしそれなりに意味があるようです。 まず生まれた島を名前順に書いていきます。 1) あわじのほのさわけのしま (現在の淡路島) 2) いよのふたなのしま (現在の四国)    ・エヒメ (現在の愛媛、うつくしい乙女の意)    ・イヒヨリヒコ (現在の香川、米を産する男)    ・オホゲツヒメ (現在の徳島、アワを産する女性)    ・タケヨリワケ (現在の高知、雄々しき男子) 3) おきのみつこのしま 別名アメノオシコロワケ (海原の沖合にある3つの島) 4) つくしのしま (現在の九州)    ・シラビワケ (現在の福岡)    ・トヨビワケ  (現在の大分と福岡の一部、豊の国)    ・タケヒムカヒトヨクジヒネワケ (現在の佐賀、長崎、熊本)    ・タケビワケ (現在の熊本南部と鹿児島県、熊襲の国) 5) いきのしま 別名 アメヒトツバシラ (現在の壱岐、離れ小島の意) 6) つしま 別名 アメノサデヨリヒメ (現在の対馬) 7) さどのしま 8) おおやまととよあきづしま 別名 アメノミソラトヨアキヅネワケ     (現在の本州、五穀の豊かに実る島の意)    以上が大八島国生みです。そしてその後にオノゴロ島に戻り、また6つの島を生みます。 a) きびのこじま 別名 タケヒガタワケ (現在の岡山県児島付近) b) あずきしま  別名 オホノデヒメ (現在の小豆島) c) おほしま  別名 オホタマルワケ (所在地不詳 瀬戸内海の島か) d) ひめじま  別名 アメヒトツネ (現在の大分県姫島) e) ちかのしま 別名 アメノオシオ (現在の五島列島) f) ふたごのしま 別名 アメフタヤ (現在の五島列島) *** 国生みで一番最初にちゃんと生まれたのが淡路島でしたから、本居宣長はオノゴロ島は淡路島付近の絵島だと同定しました。しかし私は絵島が火山島ではないことから済州島ではないかと考えました。 *** まずこれらの地名を分析して行きます。 ことばには接頭辞というものがあります。ある単語のまえにつけて何らかの属性を加える

オノゴロ島再同定

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チェジュ島(済州島) Wikipedia 前回『古事記』にあるオノゴロ島とは台湾南端東の海上にある蘭嶼島か火焼島(緑島)ではないかという仮説を立てました。 その根拠は「縄文時代の西日本ではポリネシア語のひとつが使われていた。その単語の全ては母音終わりである」(大野晋)という点にありました。 たしかにむかし蘭嶼島や火焼島に住んでいたアミ族のことばはポリネシア語であり、且つあ・い・う・え・おの五母音を使う母音終わりのことばです。そうであれば大野晋氏の仮説とかぎりなく近くなります。 ところが『古事記』の神話の主人公は弥生人です。 『古事記』全体が関わってくるのは弥生人の歴史であり、縄文人がかかわる部分は被征服者としての部分になります。そうであれば国生みの神話は隼人(熊襲)や蝦夷(東夷)とは関係はなく、扱いも違って来るでしょう。だからそのように分けて考える必要があります。 弥生人の出自はむかしは朝鮮半島だと思われていましたが、最近は中国の東南部からの渡来が有力になって来ました。ではその線で考えてみます。 *** 弥生人が中国の東南部から渡って来たとなるとオノゴロ島の場所が変わります。 この場合、オノゴロ島を台湾の付近だとは言えなくなります。なぜなら弥生人の人骨と近似する人骨が見つかった場所は山東省、江蘇省、安徽省のあたりで、もし水稲栽培が発達した河姆渡遺跡がある浙江省も入れたとしてもいずれも黒潮と偏西風から考えると台湾に向かうにはやや難があります。そこで韓国のチェジュ島=済州島が浮かんで来ます。 済州島はオノゴロ島の条件である自凝島つまり海底火山が噴火後に冷えて固まった火山島である条件を満たします。 チェジュ島経由で弥生人はさらに東の五島列島か対馬・壱岐の島を経由して九州北西部にやってきた可能性があります。オノゴロ島でまず産んだ二つ島が役に立たなかったのは、水稲栽培で生計を立てていた弥生人にとって、五島列島の二つの島も対馬と壱岐の島も小さくて役に立たない島だったのでしょう。それで水蛭児と淡島と名づけて無視したのではないでしょうか。 ***

熱効率から見た日本人

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亜寒帯と寒帯遺伝子はGマーク 日本人は暑がりでしょうか。住んでいる場所にもよると思います。グラフで見るかぎり日本人はどちらでもないようです。 表は日本人のミトコンドリア遺伝子の変異の出現頻度を南方中国人と北方中国人とに分けて比較したものです。 ミトコンドリアは細胞内小器官でATPという化学反応をおこしエネルギーを産出します。人間の活動エネルギーはほとんどがミトコンドリアによります。ミトコンドリアはこれ以外にも人間の体温を保つ熱を供給するという重要な役割も担っています。 ミトコンドリアの遺伝子は母系の遺伝子です。それは女性が持つミトコンドリア遺伝子だけが子に伝えられ、男性のもつミトコンドリア遺伝子は捨てられてしまうからです。女性は男性に比べて定住性が高いですから、極北や亜寒帯でなら地域の環境に変化があればそれに適応するためにATPの産出を抑えて熱の産出を増やす必要があります。それがミトコンドリアの変異を生み、北方系のミトコンドリアのタイプが生まれたと考えられます。 このことを専門家たちが検証しました。 →『Natural selection shaped regional mtDNA variation in humans』 Dan Mishmar et al.,。調査の結果もそのようでした。 *** 日本人は平均では54%が体温維持優先の変異遺伝子をもっています。それに比べて中国の南部の人間は35%、北部は64%とはっきりした違いがみられます。 面白いことに沖縄の人は体温維持が悪いM7a遺伝子を24%持っているのに、一方では体温保持効率の良いD4、D5遺伝子も本土人なみに持っています。 アイヌの人はこのD系の遺伝子は本土人よりやや少ないのですが、南方系のM7aの遺伝子は16%もっており、本土人の7.5%をはるかに超えています。 つまり北の人がかならずしも暑がりではなく、南の人が寒がりではないということになりますが、これは日本に来た人たちが何回も異なる方向から入ってきたか、南北に移動したからでしょう。

仁徳天皇とオノゴロ島

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現代語訳『古事記』主要部分 オリジナルの『古事記』の各部分の長さはわかりませんが、福永武彦氏の現代語訳の場合、図のような長さになります。なぜこのような表を作ったかと言いますと、古事記の重点がどこにあるかを知りたかったからです。 祖の代は第一巻に含まれています。 この部分は神話の部分ですが、神話には渡来弥生人と原住縄文人とのやりとりがあります。 巻二の冒頭は神武天皇の話で27頁を使っています。 ここでは弥生人の東遷の話がとりあげられています。 注目したいのは景行天皇から始まり履中天皇までの部分です。 この部分は一見それぞれの出来事を描いているようですが、実は複雑に絡み合った一連の権力闘争と民族闘争の歴史が描かれており、古事記の核心をなす部分です。 とはいえ、ブログで長い解説は禁物です。 *** この部分の中核をなす仁徳天皇をとりあげます。 仁徳天皇は応神天皇とかぶさる部分が多く、応神天皇と同一人物ではないかという話もあります。しかし仁徳天皇は歴史上で確実に存在した最初の天皇だと言われており、巻三の冒頭を飾る天皇であり、渡来人とは思えない振る舞いをする天皇であります。 渡来弥生人はどんなことを日本にもたらしたか、水稲栽培と鉄と機織りです。 渡来人は男が戦いにそして女が稲作と機織りに勤しみました。機織りの養蚕も渡来人を特徴付けるひとつです。しかし仁徳天皇は知りませんでした。さらにそのお妃の磐之媛命(イワノヒメ)も養蚕を知らず、三様に変わる虫を見るために山城に滞在する話が古事記の中にあります。 仁徳天皇は助平な王様だったようです。 お妃のイワノヒメが嫉妬深いにもかかわらずあちらこちらの女性に手を出します。 国生みの最初にでましたオノゴロ島がその物語の中で再び現れます。 「おしてるや 難波の崎よ  出で立ちて わが国見れば  淡島 淤能碁呂島 (オノゴロ島)  あじまさの 島も見ゆ さけつ島見ゆ (あじまさは檳榔の意)」 これは天皇が恋した吉備のクロ姫を太后のイワノヒメが吉備に追い返したために、天皇が淡路島を巡視すると行って、こっそりと吉備に渡る際に淡島にて、つまり淡路島で詠んだ歌です。本居宣長はこの歌をみてオノゴロ島は淡路島の先端にある絵島と同定したのだと思います。 仁徳天皇はつぎつぎと女性に手を出

オノゴロ島同定

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一番南に 蘭嶼島があります 『古事記』は日本最古の書物ですから、教養として読んでみたいと思っていました。 それで福永武彦氏の現代語訳を買いました。また参考のために『日本書紀』の現代語訳も同時に購入しました。 『古事記』を読んで最初に興味をもったのは「オノゴロ島」のことでした。 日本の全土を作ったイザナギ・イザナミのミコトは、さまざまな島を生み出す力を持っていながら、なぜにオノゴロ島という自然の島が必要だったのだろうか。さらには、オノゴロ島に降り立ってから産んだ最初の2つの島は、なぜ役に立たなかったかにも興味をもちました。 神話ですからそう進んだのだと言ってしまえば済みそうなものですが、なぜに自然島が必要だったか、そしてその後の2つの島がなぜ役に立たなかったかを考えてみました。 *** 台湾の南端恒春半島のその東の海上に蘭嶼(らんしょ)という島があります。 日清戦争の賠償として台湾が日本に割譲されると多くの学者がやって来ました。当時この島は南島語の日本渡来のルートにあたると考えられていましたから、民族学、言語学の各分野の学者がやってきて、徹底的な調査を行いました。日本の文化人類学の草分けとも言われる鳥居龍蔵もやって来て、この島を 蘭嶼島と 名づけました 。 蘭嶼島には タオ族という海洋民族が住んでいます。 彼らは民俗学者岡正雄が定義する日本民族の文化的特徴の1番目 「母系的・秘密結社的・芋栽培・狩猟民文化」におおむね該当する民族です。 しかし 調査の結果では、 日本祖語の南島渡来説を確立するまでには至りませんでした。 鳥居龍蔵は興味を失ったのでしょうか、3年後から東アジアに興味を移します。しかし日本時代この島の重要性も重く見た政府は島を隔離して文化を保護しました。おかげでタオ族の文化は損なわれずにすみました。 一方、日本が撤退した後に国民党政府はこの島に囚人と退役軍人の農場を設けて島民の生活を侵害し、また核廃棄物の処理場としてもこの島を利用しています。 *** 蘭嶼島のすこし北には緑島という小さな島があります。 台東市の東の海上のあたりです。 むかしは「火焼島」とよばれていました。日本占領時は無人島でしたが、この島も国民党時代には重大政治犯を閉じ込める監獄

中国語の源流を求めて (4/5)母系で見る

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この図は現在身分証明書上では漢民族として扱われる女性たちの母系遺伝子ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分布です。 遺伝子は両親から引き継がれますが父親のmtDNAは破棄されます。その理由はmtDNAが体温への熱配分を司っており気候による環境差を考えたばあい移動が少ない女性のmtDNAの方が現地環境に適しているからです。 図中の線で漢民族の女性は南北で大きな違いがあることが分かります。また東西でも違いがあります。しかし⑥の四川省とチベットの間を除けば差はそれほどは無いようです。この濃い違いはチベット高原の影響によるものと考えられます。 mtDNAは大きくI・II・IIIで分けられています。その分かれ方は気候帯とほぼ一致します。 Iが秦嶺淮河線に該当します。秦嶺淮河線は中国の農業を水耕稲作と麦作に分ける線です。北側が乾燥地帯南側が年間降雨量が1000mmを越える地帯です。 IIは嶺南山脈で分かれる温帯と亜熱帯の線です。この山脈の南方では昔はマラリアなどの熱帯病がはびこっていました。 IIIは不思議な地域です。気候的には黄河中流域と同じ温帯乾燥帯ですがここだけが囲まれています。エリアは河北省と山西省を含んでいます。 中華民族の始祖黄帝・炎帝やシュウウの逸話が多く残されており司馬遷も調査に訪れたことがあります。また古中国語の音韻構造の再構築で名を成したカールグレンはこの辺りを入念に調べました。この辺りで話される晋語には漢人最初の王朝「夏」の名残が残っていると言われています。 一方ではこの地は南北朝の北魏の首都から唐の建国の地と常に鮮卑族の活躍する場所でした。現在鮮卑の人は朝鮮族を除きほとんどが漢人戸籍に組み入れられています。そのせいかも知れません。 母親が子供に伝えるもう一つのものが母語の音韻体系です。子供は1才半で母語の音韻体系を習得し他の言語の音韻を排除するようになります。このmtDNAの違いが奇しくも中国語の方言の分布に一致する事がそれを物語っています。 →最終回 南北の融合

翻訳ソフトTradosの使い方

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小島港の小物釣り →前回の続きです。 今回は自分のために書いています。Tradosでの翻訳ステップを記録してみます。参考にしてください。 ① 原稿を読み込む まずはTradosを立ち上げ原稿を読み込みます。    今回の原稿はワードでもらいました。Tradosはバージョン2011を使っています。 ② Tradosはさまざまな作業ファイルを形成しますので、原稿は作業用のフォルダに収納します。 そこからTradosで開きます。私はファイルコマンドの「開く」からこのワードファイルを読み込みました。 ③ Translation Memoryの選択画面が出てきたので新しい日本語から英語への空の翻訳メモリを作ります。 ④ 原稿が読み込まれ今回は23の節に分割されました。エクセルを立ち上げ、23の節をコピーしてエクセルに貼り付けました。エクセルに23行のデータが入りました。 ⑤ 今度はエクセルの23行を選択して、ウエッブのGoogle翻訳に貼り付けます。今回は日本語から英語ですから、Google翻訳はその通りにします。そして翻訳された内容を全部選択してエクセルの隣の列に貼り付けます。貼り付けが正確にできているか日本語と英語を比較します。最初と最後の列と幾つかの列が合っていれば大体問題はありません。それを原稿と同じフォルダに保存します。 ⑥ さらにエクセルをテキストファイルで保存します。Unicordのテキストファイルで保存します。そしてエクセルを閉じます。保存の時何回か「機能が失われます」とかが出てきますがそれは無視してOKとします。 ⑦ 次にTrados2011を購入したらついてくるTrados2007の中の「SDLX」というソフトを立ち上げます。立ち上がった画面から「Maintenance」というメニューを選びます。そしてTMというコマンドを選び「New」で新しいTMを作ります。名前は自由ですが保存場所は同じフォルダに入れておきます。 ⑧ 更にTMから以下の順序でエクセルで作成したUnicordのファイルを読み込みます。 TMのImportを選びDelimitedファイルを選びます。 そこから更に→Add→Add Selectionでさきほどエクセルで作ったUnicordのファイルを開きます。 次に言語選

弥生の言葉から

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温帯指数分布図 どんぐりと生きるより 図は →『どんぐりと生きる』 からみた温度量の指数分布図です。 東アジアは大体今から5000年ほど前に気候が安定し現在の状況になったと言います。この図はその安定した後の温度分布に因るドングリの生存域、つまり植生のちがいを表しています。 *** 120度から140度は照葉樹林の生育に適した地域です。つまり水稲栽培にもっとも適した地域とも言えます。図の薄緑の範囲であれば、水稲栽培をもたらした弥生人はなんの苦もなく自身の勢力を拡大することが可能だったでしょう。 温度量が100度から120度ではそうは行きません。 乾燥していましたから水稲栽培にはそれなりの経験と技術が必要になります。それでも弥生人はこの地域まで進出します。温度は多少低いのですが、九州の阿蘇山地での経験や黒潮、対馬海流が助けてくれたのかも知れません。少なくとも山陰、そして山陽の山地、北陸、京都・奈良盆地、東海、関東まではなんとか勢力圏を広げるのが可能だったでしょう。 しかし最高で100度にしか達しなかった地域ではどうでしょうか。 それは山陰、兵庫、熊野などの山間地に孤立する地域です。彼らは焼畑農法をまもり、弥生人とはまた異なる縄文文化を維持したのではないでしょうか。そういう意味では阿蘇山地や四国山脈、山陰、近畿、北越、関東もかならずしも水稲栽培に突き進んだとは言えないかも知れません。 この図で見るかぎり現在の日本語の祖語、つまり弥生語が力をもっていたのは薄緑色の地域に限られるような気がします。

大陸渡来人

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幼いころ遊んだ街角 長沙街二段 馬祖廟 前回 →上戸と下戸 遺伝子について書きました。今回は中国大陸由来の遺伝子O3から渡来人を考えてみたいと思います。 *** 中国人のほとんどが持つ「O3」遺伝子には代表的な2つの変異型があります。 「O3*」と「O3e」です。 「O3」遺伝子のうち「O3*」はO3-M134とも呼ばれ中国ではシナ・チベット語族とミャオ・ヤオ語族によく現れます。一方の「O3e」遺伝子はO3-M7とも呼ばれオーストロアジア語族によく現れる遺伝子です。二つの遺伝子の分布のちがいは一方が雲南省などの内陸部に多く、一方がベトナム沿いの海岸部に多いということになります。 この2つの遺伝子だけでも中国人の父系のY染色体の半数以上を占めているので中国人のマーカー遺伝子とも言われています。 このO3遺伝子の分布を前回のブログの表を元にさらにくわしく見ていきます。 旭川人   O3: 11.7% O3*  7.5%  O3e 4.4% 関東人   O3: 14.5% O3*  7.2%  O3e 7.3% 名古屋人 O3: 21.8% O3* 15.0%  O3e  6.8% 関西人  O3: 23.9% O3* 13.5%  O3e 10.4 % 沖縄人   O3: 20.6% O3* 16.0%  O3e   4.6% 韓国人  O3: 44.5% O3* 17.2%  O3e 27.3% 上海人   O3: 43.3% O3* 26.6%  O3e 16.7% 台湾人   O3: 58.2% O3* 29.2%  O3e 29.0% *** それぞれの地域におけるO3eとO3*の比率を比べてみました。 韓国ではO3eはO3*の1.6倍になりました。 これは韓国人の先祖のうち海岸沿いに上って来た人数が内陸部から来た人数より多いということになります。あるいは中国のより南部から渡ってきた先祖のほうが、韓国では揚子江沿いに渡って来た先祖よりも人数が多かったことになります。 日本の場合はこの逆のようです。 揚子江沿いに海岸に出てから日本に来たO3*遺伝子が多く現れます。 渡航元の上海の遺伝子の比率からも日本の中国大陸系の渡来人の多くがこの地から来たことを伺わせます。

上戸と下戸から見た日本人

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私はお酒は好きですが上戸ではありません。そこそこ飲めるという程度です。 図は筑波大学の中村貴子氏の →『お酒やコーヒーなど日常的飲み物と日本人の遺伝子』 にある日本人のアルコール耐性遺伝子に関するものですが氏は人の上戸下戸はミトコンドリア内にあるALDH2酵素のタイプによって分かれると言います。 また同じ筑波大学の原田勝二氏は「飲酒様態に関与する遺伝子情報」でこの遺伝子は弥生民族が水耕稲作と共に持ち込んだものと指摘しています。その意味では弥生渡来人のマーカーだと言えます。 ではそのマーカーから自分の出自が分かるのかと考えこのブログを書いてみました。 *** このお酒に関連する遺伝子はALDH2という酵素を体内に作ります。この酵素には3つのタイプがあってNN型は酒に強くいわゆる上戸のタイプです。DD型は全く飲めないタイプです。そしてDとNが1つずつならそこそこ呑めるND型です。この酵素の働きはお酒を飲んだ時に顔が赤らむのですぐに分かります。私は顔が赤らんでもそこそこ飲めるのでDN型です。 *** 日本人の渡来の時期は大きく分けて縄文以前、縄文以降、新石器稲作弥生人と鉄器稲作弥生人の4つの時代に分けられると思います。そしてALDH2を持って来た渡来人は私の考えでは新石器弥生人がもっとも多かったのではないかと考えられます。それは以下の男系遺伝子の頻度から割り出したものです。 ① 日本人に一番多いのY-DNAはD型です。男性に40%近い頻度で出現します。 D型はチベット族にも多いDNAです。発生地はチベット付近でしたが数万年の内に別れてしまいました。日本への渡来ルートは様々です。日本には新石器時代初期かそれ以前に朝鮮半島経由あるいは海岸線ぞいに来たと思われます。この遺伝子は上戸が多い遺伝子です。 ② 次に多いのがO1b2型(SRY-465)Y-DNAです。約35%の頻度で出現します。 この遺伝子はインドシナ半島から中国東海・黄海、朝鮮半島沿岸部から日本にかけて高い頻度で現れます。これは東アジア海洋民族を示唆しています。この中にALDH2に対応する人たちが多く含まれていると思います。 彼らの渡来は稲作文明に関連しますから割と新しい時代の渡来と考えられます。しかし一度に渡来したのではなく大きな波が二回あったようです。

地名から日本語の源流を求めて

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安部清哉氏の南北型方言分布よ 地図は安部清哉氏がまとめた『日本語の「南北型方言分布」研究のための言語地図一覧』の中の『アジアにおける言語・文化・気候の複合型境界線(安部)』です。 この境界線の中の最重要地点は中国の淮河(図ではHuai River)です。この地点は北緯34度くらいで日本で言えば徳島市あたりになります。 淮河から西に向かい進むと西安市の南にある秦嶺山脈につきあたります。この秦嶺ー淮河線は降雨量1,000ミリの境界線であり気候のみならず言語・民族・文化の大きな境界線になっています。 実は日本語にとってもこの淮河ー秦嶺線が重要な意味をもっています。秦嶺ー淮河線の延長が日本語の南北方言の分布につながるからです。 日本語の祖語がなんであったかは分かっていません。 しかし日本人が多民族国家であることは遺伝子分析で分かっています。日本には有史以前に何回かに分かれて人類の渡来があり、その遺伝子が残されているからです。 南北型方言分布図で私が注目したのは河の呼び名と谷の呼び名でした。 大きな河を北では「河」とよび南では「江」とよびます。一方「谷や渓谷」は南では「渓」とよび北では「溝」とよびます。さらに注目したのは河の読み方は淮河を境界としている他にもう一箇所、中国の東北部にもこのような境界が一本縦に走っている点です。 この線はなぜか朝鮮族と満州族のあいだを縦に割っています。 中国の東北地方はひとかたまりのようですが、歴史上諸民族が存亡をかけて戦った場所です。 その満州族側の大河は「遼河」とよばれ、一方朝鮮族側の吉林省や黒竜江省の大河は「松花江」と「江」が付きます。ちなみに南西の民族が多く住む珠江流域や長江上流の金沙江はともに「江」がついています。 *** 日本語にもこのような土地によって呼び名がちがう例があります。 安部氏の →地図一覧 のなかに、鏡味明克氏の「溜池を『~堤』と称する地方」の南北図が入っています。PDFp30 (1984)  その地図では溜池を~堤と称する地方は、北海道を除き。九州の北西部から関門海峡を渡り山陰へ、そして日本海沿いに北上する印が示されております。印は東北に達すると太平洋側を含めた 東北全体まで広がります。 「溜池を『~堤』と称する地方」は日本を南北に分割しています。 Wik