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自分史の「節目」

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1966年 紅馬車 前回は 自分史を書くのに心理学を応用することを書きましたが今度は節目について書いてみます。自分の人生を振り返る自分史には幾つかの重要な節目が利用できます。 ラカンという心理学者は中断を好みました。「何かが中断される時点が時間の流れの中で際立って知覚される」とフィリップ・ヒルが『ラカン』の中で書いています。 また「中断されたという時は人生に差異や葛藤やジレンマが起きた時」だと言っています。 男性の節目を調査した心理学者レビンソンは「男」の人生には3つの大きな節目がある。それは 17 歳から 22 歳、 40 歳から 45 歳、そして 60 歳から 65 歳の3つの節目だと言っています。私にもこの節目がありました。私にとって最初の節目は1966年から始まりました 。     「節目」抜粋: 横浜中華街の正門、善隣門を出て石川町に向かと次の交差点の左にサパークラブ紅馬車がある。この辺りは 港から近く、米軍宿舎がある根岸・本牧も近かいので外国人をよく見かけた。まだ日本はまずしく土地柄のせいもあってか紅馬車の客はほとんどが外国船の船員か在日米軍の士官や下士官であった。高校一年生の私は学校が終わると日が暮れるのを待ってここに来てバイトをした。 中学校までは大阪で住み込みの新聞配達員として学校に通ったが、横浜に来てから水に当たり、一週間も寝込んだ私は配達店をくびになった。その苦境を見かねて同級生が親戚に頼んで入れてくれたのがこの店である。   十字路をはさんだ向かいにはナイトクラブのゴールデン・カップスがあった。学校の先輩の実家だった。 先輩たちはバンドを組んで店の名前と同じ ゴールデン・カップスでグループサウンズ全盛期を謳歌していた。紅馬車の向かいには神戸牛のステーキレストランがあった。日本人にとって神戸牛どころかステーキさえ食べられない時代だった。客はすべて外国人だ。 紅馬車の経営者は台湾人であった。横浜の中華街を牛耳るのはおもに広東人であるが上海人や台湾人の勢力もばかにはならなかった。中華街と言えば当時も中華料理が中心である。その中でも広東料理が盛んで何百人も入れる大型店がいくつかあった。上海人の店はあか抜けてきれいだったが彼らが得意なのは洋服の仕立てと理髪店だった。素朴な台湾料理はまだ無名

自分史と心理学

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自分史を書くとき心理学をまぜて書くと面白いかも知れません。自分史を書きたいということ自体が心理学的ですから心理学をすこしかじればちっとひねりが増すかも知れません。 心理学にもさまざまのものがあります。わたしが入ったのは心理学ではなく、実は星占いからでした。そのサイトはスイスのサイトです。スイスと言えば元型心理学の祖ユングの故郷です。その星占い師がユング心理学の資格をもっていて、星占いというよりかユング心理学を基礎に人生のあれこれの段階を説明する内容でした。その内容をよく理解するためにユング心理学を読むようになりました。 ユング心理学は読んで面白いし、その「元型」という発想は分かりやすいものです。しかしどうも食い足りませんでした。私はなんでも基礎からやらないと気がすまないタイプですから、心理学の祖フロイドを読み始めました。しかしフロイドは難しすぎます。彼の心理学にはそれなりに医学の素養が必要で読んだからと言って分かるものではありません。それでもフロイドの解説書などをせっせと読みました。それは 前のブログ で書いたように切羽詰まった問題があったからです。そのうちのひとつが「書痙」です。 *** 「書痙」という症状が現れたのは10年ほど前のことです。さいしょに発生した時ただの疲れか偶然だと思いました。そして症状はすぐに消えると思いました。ところがそれはなかなか消えずに私を苦しめました。症状はまことにシンプルです。自分の名前を英語でサインするときにだけ現れるのです。指の関節に問題があるのではないかと思いました。 症状はサインの時以外では現れることはありません。日本にいたならこの症状は看過されたかも知れません。英語でサインなんかめったにしないからです。ところが香港でしたから大変でした。船積書類から、小切手、クレジットカードなど全てがサインの世界でした。 *** この症状が起きるのは特に小切手にサインする時でした。初めて小切手に英語でサインしたのはそれ以前にも香港に赴任し関係が悪かった会社に出向した時でした。私には関係修復と決裂の場合の財産評価という二つの任務が与えられていました。 相手会社の日本人は何をしにきたのという態度で私に当たります。それを知っている現地のスタッフは何かにつけて私のあげ足を取ろうとします。諸経費支払いの小切手に金額

自分史を書く

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自分史というものを約5年にわたり書いてみました。文学学校の習作として添削もしていただきました。いま考えるとそれは自分のこころのどぶ掃除だったように思います。そしてすっきりしたかと言いますと実は溝の中の汚泥をかき乱しさらなる混乱をもたらしたような気がします。 自分史というものはひとつの混乱を機に書かれるように思います。私の場合も心の分裂で体がかってな行動をとり始め、本来は穏やかで平凡な暮らしをしていた私に困惑を与える日々を押し付けて来ました。困惑な生活自体は決して不愉快なものではありませんでした。いままで全く縁がないと思っていた世界が一気に押し寄せて来たからです。しかし穏やかな生活を趣旨とするとだんだんと手がつけられなくなりました。そのように生きようとは思っていなかったから結局自分史を書いて対抗することにしました。 *** 自分史を書いて分かったことは、現在の自己と過去の自分は現在も一人の人間の中に生きており対決し融合を図らないと苦しいということでした。さらに自分とは、実はこの生身の自分だけでなく、すでに亡くなっている兄や父まで、あるいはその先祖父までもつながる自分であって時には兄や父や祖父や母方の大叔父や叔父などがひっそりと生きており、また時には大活躍をするいう実に驚異に満ちたものでした。 例えば祖父の生きた時代は明治の末から昭和の戦後までですが、その間をどのように生きたのか、住んだか、性格や対応したであろう事件を同時代に生きた人物から類似的に探し出しそれを描写してみるなど実に血湧き肉躍る行為もありました。 人間は無機物から単細胞さらには多細胞の人間までを最初からくり返すと言います。自分史はほんとうにそれを実感させるものです。

漢文素読 千字文

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中国・韓国・日本の学習方法は暗記を中心に発達しました。漢字という複雑な形状をまずおぼえないと始まらないからしかたがなかったのだろうと思いました。 その中で千字文の学習は欠かせません。千字文は子どもたちが最初に取り組む文言としては難しすぎるように見えますが、かしこい子供なら3歳程度で憶えたそうです。 私はいまこの千字文を活かして子どもたちに中国語を教えています。なぜなら音が苦手な子供もいるからです。 これは私が作ったテキストです。上から漢字、次に中国語の発音記号であるピンイン、そして最後がハングルでの表記です。なぜハングルがあるかと言いますと六年生の子どもがK-POPにこっており、韓国語を学びたいと言いましたので入れています。 さてこのテキストがどれほどの効果を上げるかは未知数です。大体漢文の素読は延々と読んでいくものですが、現代の子どもにはそのような強制された勉強は向きません。子どもたちはのびのびと母語保障のクラスでたのしく遊びたいだけです。だから千字文を黒板に大きく写して書いて遊んでいます。 このあたりは私の任務とはだいぶ乖離しますが、やはり母語保障のクラスは子どもたちが将来自分と係わりがある祖国や民族を考える上ですこしは役に立てばと考えています。 また韓国語は中国と日本を考える上で役に立つと思います。

中国語の源流を求めて (3/5)遺伝子回廊

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今回は遺伝子から考えてみました。 参考にしたのはネーチャーの論文 『中国人の遺伝子構造の空間的分析・・・』 です。 この論文は中国人の遺伝子が南北でどう違うかを調べたもので、言語とは直接関係はありませんが、遺伝子の分布は何らかの意味で言語の分布と関係しており、ちょっと考えてみました。 この図は中国における「K*」というY-DNAの分布の頻度を表したものです。この論文の発表者はこの帯状の分布を「チベット・ビルマ語族の回廊」と表現しています。確かに遺伝子の分布は現在のチベット・ビルマ語族の分布に近いものです。 「K*」という遺伝子は「K」の下流に発生した主流の遺伝子、例えばフィンランド人に多い「N」や中国、東南アジア、韓国、日本人にも多い「O」など多くの変異遺伝子の中には含まれないややマイナーな遺伝子と言えます。 しかしマイナーで且つ多様ですからオリジナルの分布に近いと考えることができます。言語でも最も多様に変化した場所がその言語が発生した場所だと言われています。 となるとシナ・チベット・ビルマ語族の漢語を含まないチベット・ビルマ語族はこの図の濃い色のところで発生したと考えられます。 *** 図の色の最も濃くて面積が大きい所は現在中国の雲南・貴州のあたりです。 そしてもうひとつブーメラン型のこの回廊の上にも二つの濃い小さな丸があります。ちょうど黄河文明が発生した地域です。これはチベット・ビルマ語族と分離したシナ語族、つまり漢語の発生の場所と一致します。 漢語つまり中国語は昔はチベット語やビルマ語と祖語が同じだったと言われています。 中国語とチベット語に分裂するとそれぞれが独自の語族となり多数の言語や方言に発展しました。普通ビルマ語はチベット語からの分離とされていますが、この図を見る限りはそうは言えないと思います。 言語は古ければ古いほど多様に分離すると言われていますからシナ・チベット・ビルマ語の分離の数をみなければなりません。 分析者にもよりますがチベット語族はビルマ語族を含めると数百種類になると言います。一方の漢語族は別言語と言われる晋語を入れても10種類ほどです。多様に変化するには時間がかかりますからチベット祖語と中国語祖語の比較では中国語は新しい言語ということになり

日・韓・中音韻比較

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日韓漢語語彙比較表 韓国語を始めてから1ヶ月がたちました。 私の勉強法は日本語と比較しながら韓国語を学ぶという方法です。 画面は大島正二氏の『漢字伝来』の補章の日本漢字音 と中国原音の対照と山村敏江氏の『訓蒙字解の音韻体系 』 を表にしたものです。 まだ字母の部分、つまり子音だけしか整理はできていません。それに国際音標の入力もうまく行っていませんが、まあフォーマットらしきものはできたと思います。 この方面に関しては更に良い材料を見つけることができました。 →カールグレン ( Bernhard Karlgren 、 1889 年 - 1978 年)の『中国音韻学研究』です。 それは中国語に翻訳されたものですが、 ウェブでダウンロードできるとは思ってもみませんでしたから、最高の喜びです。 私はカールグレインが苦心して集めた漢字のリストを使い、更に日韓両語の漢字音や中国各地の音韻の比較ができるようになりました。とはいえ、あまりそれに深入りはできません。 文法の方は『韓国語概説』の「文字」と「音韻」を読み終わりました。 これから「単語と品詞」に入ります。だいたい 3 分の1進んだところでしょうか。 まだハングル音が定まっていないので、表面をなぞっているだけです。あと数回は最初から読み直す必要があるでしょう。 これを書いてから勉強がほとんど止まってしまいました。またやる気が起こるのを待ちます。

倭人とは

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55年前住んでいました台北の家 倭人とは。 「倭」は、通常背の低い人の国と解釈され、当時の日本人は背が低かったと解釈されます。ところが邪馬台国の倭人は南島系(ポリネシア系)の血をひくと考えられています。実際に現代の日本人の脳もサモア人に似ていることが分かっています。 サモア人といえば大相撲で一世をふうびしたハワイの人たちのようなたくましくて大きな人たちです。そのような先祖を持つ日本人を倭人 - 背が低い人というのはおかしくないかと思います。 漢字源に倭は「日本及び日本人をさしたもの。背が曲がって丈の低い小人の意」と書いてあります。中国の最も古い辞書である『説文解字』に「倭」という文字はありませんが「委」に人偏をあとから加えたものと考えると「委」の意味を求める必要があります。 私の手元にある『説文解字』を元にした字典『中文字譜』( http://zhongwen.com/ )に拠れば倭には「稲穂の実った様。女性」という二つの意味があり、そのどちらも卑弥呼の時代の日本を表しています。南中国の稲作文化を導入した国、そして女性が治めている国ですから、「倭人」を小人の国という解釈ではなく、稲穂の実る女性が治める国の人と考えてはどうでしょうか。 この他にも「倭」という民族は中国北西部にもいました。北西部ですから騎馬民族あるいは狩猟民族と考えます。しかしこの地域は粟や稗の畑作も盛んです。「 禾」は稲のみならず五穀をさします 。 そして この民族は母系制の民族でした。父系の強悍な遊牧民族の中で農業を生業としており、尚且つなよなよとした女性が支配しているということで「倭」という字があてられたのではないでしょうか。 だとすると「倭」を「背が低い」と解釈したのは、その後日本の留学僧などが漢字を学び、矮小の「矮」と字が似ていることで、蔑視だと考えて言い出したのかも知れません。そしていつの間にかそれが定説となり、悪字を改めようと「倭」を「日本」に変えてもらったのではないでしょうか。 「日の本」という国名の変更を認めたのは、唐の則天武后でした。則天武后は女性でしたが自らも漢字の文字を創りだすほど漢字の意味にこだわりる人でした。「倭」の「女」は跪く(ひざまずく)女性の姿を写している字ですから、彼女にとっても屈辱的字だったかも知れません。それで日本の国名の変更

鹿児島弁

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日本の平安後期の中国 昨日日本語講師講座で面白いことを知りました。日本の方言のアクセントを学んだのですが、特殊方言として鹿児島の方言を学びました。 鹿児島の方言のアクセントは2型と言われ、語の長さがどんなに変わっても、アクセントの種類は2つしかありません。標準語は多型アクセントですから、語の長さ(拍の数)nに1が足される n+1 のアクセントがありますから、憶えるのが大変です。 鹿児島の方言はアクセントが語の最後から2つ目に来るA型と、最後に来るB型しかありません。 標準語よりはだいぶ簡単そうです。ところがこのアクセントは単語によって変わるのです。 例えば、ブラジルはA型、つまりアクセントが最後から2つ目の「ジ」に来ます。ところがおなじA型のアマゾンのアクセントは、最後から3つ目の「マ」に来ます。これでおなじA型と言えるでしょうか。 次にアクセントが最後に来るB型を見てみます。 アメリカは、アクセントが最後の「カ」に来ます。しかし、がっこうでは、アクセントは後ろから2つ目の「こ」にかかります。これではアクセントが最後の音にかかるとは言えません。 私は聞きながらこれらの音をハングルで書いてみました。(韓国語ではありません) A型 부라 지 루 ブラジル 아 마 존 アマゾン、共に後ろから2つ目です。 B型 아메리 가 アメリカ 깍 고 がっこう、赤い字で示すとおり、これならともに最後です。 それで分かりました。鹿児島の言葉は他の地域と大分違い、ハングルに近い構造を持っているということです。 このようなアクセントをシラビーム(音節アクセント)というそうです。 鹿児島は薩摩隼人の国として有名です。 薩摩隼人は渡来人系ではなく原日本人系だと言われています。 しかしこのアクセントを見るかぎり、どうもそうは思えなくなりました。 日本の歴史は、中国の膨張とともに影響を受けた韓半島が、日本に膨張して来た歴史でもあります。もしかしたら、鹿児島人は弥生時代初期の先渡来人であり、高天原族とはちがう系統の渡来人ではないかと思いました。

中国語の源流を求めて (2/5)原始中国語

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Wikipedia シナ、チベット語族中国語版より →前回 は金田一春彦氏の『日本語』との比較で現在の中国語はアジア東南地域の言語と類似していることが分かりました。 アジア東南の言語とはタイ・カダイ、モン・クメールそれにミャオ・ヤオ語です。現在はタイやベトナム、ラオスなど東南アジアの国々と中国の雲南省など中国西南の地域で話される言語です。これらの言語は相当むかしから中国語と接触していたようです。 Wikipediaの中国語にある系統図によると現在の中国語つまり北京語を中心とする北方語は最も左の中国漢語から分かれています。このグループのルーツは中古漢語つまり唐代西安で話されていた言葉にあります。その下には近代語、北方漢語、広東語がありますが中国語で書かれこの種の資料は中国人の偏見を反映している物も多く参照程度にしか使えません。 *** さて本題に入ります。 中国語の源流は6000年前黄河流域上流で栄えた仰韶文化まで遡れます。そこには中国語とチベット語(&ビルマ語)が分かれる前のシナ・チベット祖語があります(Routledge [ The Sino-Tibetan])。しかしそれ以上は遡れません。なぜなら古い言葉は音韻の再構築に依って上流へと辿るのですが遡れるのは6000年が限度です。だからとても似ている韓国語と日本語でも音韻対応が解明できないので分離は6000年以上だとしか言えないようです。 ある言語が同じ元から分かれてどの位かかると音が変わるかを知るのが言語年代学です。この方法ではおよそ1000年で音韻は19%変化します。この計算で偶然の一致を除くと現在の中国語の代表である北京語と唐代の音韻を強く残す閩南語では73%となります。私は両方話せますが北京語話者と台湾語(閩南語)話者では口語はまったく通じません。沖縄語と本土語も口語ではほとんど通じないと言います。1000年ほど前の音韻を残す沖縄の日本語も合わせて考えると表の龍山時代に漢語と蔵語(チベット語)が分かれたと考えます。 言語年代学の例 経過年数    

翻訳ソフトTrados

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サラリーマンの生活に先が見え始めたころ英語の勉強をはじめました。どうも独り立ちするには中国語だけでは物足りないと思えたからでした。 いちおう商社マンでしたから船積書類や日程などの英語の定形文は読み書きができました。しかし英語を使い世界で活躍する同僚を見るにつけ羨ましいと思いました。 そんな同僚に「中国語ができて羨ましい」と言われますと逆にそれがコンプレックスになりました。 しかし人生は皮肉なものです。中国ブームが継続し英語を勉強する暇などはとてもありませんでした。でもバブルがはじけて50才の時会社をリストラされるとやっとその機会がやって来ました。そこですぐには再就職せずに1年半ほど集中的に勉強しその後も原書を読むなどして継続しました。 *** 本格的に翻訳を始めたのは2009年からです。最初の仕事は大きなプロジェクトの技術文書をすべて訳すという大規模なものでした。大体5人程度ですべてを訳す予定でしたが当初は2人で仕事を分けました。もう一人の方はプロジェクトの担当者でしたから兼業でした。10月ほどから仕事を始めた段階で山のような資料の翻訳が待っていました。人手がまったく足りません。しかし増えるはずの三人は翌年の4月に雇用が予定されている人たちでそれまでは2人のままでした。 その時に思う付いたのがTradosの導入です。 Tradosは機械翻訳ソフトのようですがそうではありません。Tradosは翻訳のデータベースなのです。データベースとは、以前翻訳した文章を参照できるようにしたソフトです。 たとえば[I have a fun]を「私には趣味がある」と訳したとしますと、こんどは[I have a dog]という文章が出てきたとすると「私には趣味がある」という文章が例えば70%のヒット率というような表示とともに出てきます。そして趣味と犬にアンダーラインがついていて趣味と犬を入れ替えると大体正解となります。また数字であれば[I have 1000 Yen]を「私は1000円を持っている」と訳しておけば、[I have 2000 Yen]という文章が出てくると「私は2000円を持っている」とちゃんと金額の1000円を2000円に変更して100%ヒットの文章として訳してくれます。 このように翻訳に不安があっても過去の訳を参照しながら訳して行

父の言葉 母の言葉

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東北弁は昔の京都弁 内藤湖南 言葉を学んで行くと様々な分野に出会います。方言もひとつの分野です。 単一民族と自称する日本人も方言から見ると幾つかの民族に分かれるようです。日本人が思っているほど日本人は単一ではありません。 日本人の民族構成は旧石器の時代がどうだったかは分かりませんがまずは縄文の民族が居てそして稲作が持ち込まれたが鉄器がなかった弥生前期民族更に鉄器と水利を持ち込んだ弥生後期の民族が考えられます。その後も中国や朝鮮半島から民族が渡来しますが弥生後期から古墳時代にかけて現在につながる日本語が完成したと思われますから縄文人と二波に分かれる弥生人の言語が注目されます。 言語学では方言を音韻、形態、構文などで分析しますが私は単純に音韻を母の言葉として構文を父の言葉として考えてみました。 *** 日本語とは 日本語は混合言語だと言語学者の村山七郎は言います。混合言語とは何か『日本語の起源』の中で村山は「雑種」だと表現しています。つまり日本語は一つの祖語から変化した言葉ではなく2つ或いはそれ以上の言葉が合わさってできた言葉ということです。 可能性としてはアルタイ系の諸語と南島系の諸語のどれかが複数混じって出来上がった言語ということになります。 その理由は日本語の構文はどう考えてもアルタイ系です。一方 日本語の身体語彙のような基本となる語彙の中には南島系の言葉が多く含まれて居ます。遺伝子的にもそれが証明されます。 日本語の底流に南方系の言葉が有りその後アルタイ系の文法を持つ朝鮮南部の言葉が日本に入って来て日本語が成立したと言ったのは国語学者の大野晋です。 彼は後にインド南部のドラビダ語が日本語の起源という説に変わります。 しかしながら当時ドラビダ人が日本に来て鉄と稲作を伝えて言語を標準化したのであれば後に述べる秦の広東屯田兵士のように人数的にも期間的にも相当な規模が必要で父系遺伝子にも変化をもたらしたはずです。しかしドラビダ人系のY-DNAの痕跡は残されていません *** 方言について中国の場合を見てみます。標準語も方言の一種とみなします。 中国語の場合は標準語は北京語と一般に言われますが実態は中国北方の広い範囲で使われている言葉です。 この北方で使われる言語を総称して「北方漢語」と言います。大きく

言葉の誕生

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唇音を多用するオランウータンの会話 現在の人類つまり現生人類の言語は多様ですが実は20万年前はミトコンドリア・イブ(mt-Eve)と呼ばれた一人の女性が話していた単一の言語に集約されます。 つまり人類はmt-Eveが話していた社会の言葉を母語として受け継いで来たことになります。 もっとも古い言葉の形を保っているのはアフリカで現在も太古と同じ狩猟採取の生活をしているコイサン族の言葉だと言われています。この言葉は多くの音素と唇を吸うような吸着音を持つ言葉として有名です。実は最近オランウータンもこの吸着音を使ってコミュニケーションしていることが分かりました。 オランウータンは唇や舌や顎などを変化させて子音のような音を使いコミュニケーションをします。映画「ブッシュマン」を見た人ならコイサン語のチュチュという唇を吸って出す音やタ・タ・という舌の音を思い出されるでしょう。 *** オランウータンから吸着音の言葉が5000パターンほどが見つかっています。パターンから意味を解析したいのですがしかし残念なことに母音を伴わない子音だけの分析は難しいようです。 彼らは同じ意味をいくつかのパターンで使い分け、双方で確認し合うようです。例えば[自動車]なら「自動車」以外に[カー]や[乗り物]など同じ意味を交互に言って確認をするそうです。そうでないと相手が理解したか心配なようです。 これは音韻体系が未熟なせいかも知れません。または母語の発音が群れ全体で共有されていない可能性もあります。しかし言葉は人類が直立するようになり声門が下がったお陰で話せるようになったという説に疑問を投げかけます。 *** 言語は知恵により生まれると思います。人間が話すような複雑な言語は社会で認知されなければ成り立ちません。それには言語の構造化が必要です。 チンパンジーと枝分かれした猿人の末裔は華奢な体型でした。更にチンパンジーとの生存競争に負けたせいか彼らは平地に降りざるをえませんでした。彼らはサバンナで生き残るために何かをする必要がありました。彼らが苦渋の決断をしたのが火との接近だったと思います。火は今でも動物をよせつけません。なぜか裸の猿となってしまった彼らには寒さと肉食獣から自分たちを守る火との暮らしが必然だったのでしょう。 火は燃やす物を要求します。彼

中国語の源流を求めて (1/5) 中国語とは

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中国語と周辺言語との関係 6才で台湾に渡り現地校で4年間中国語に触れて来ました。日本に戻ってからも中学は2年間華僑系の学校で学びました。その後も通訳の専門学校に通い仕事も商社での通訳など60年以上も中国語と付き合って来ました。そんな私が「中国語ってどんな言葉」と聞かれると「ん?」と全くわかっていなかったことに気づきました。 中国語って果たしてどんな言葉でしょうか。 去年の10月から大阪YWCAで日本語教師講座を受講し始めました。そこで出会ったのが日本語です。先生から「これからあなた方がいかに日本語を知らなかったかを知るでしょう」と言われました。日本語なら子供の時から話しています。東北や南島の方言でなければまず大丈夫です。ではYWCAで日本語とはどんな言葉として教わるのでしょうか。 YWCAで日本語の音韻構造や構文、歴史的仮名遣い、対照言語学などを教わりました。講義はほんのさわりだそうです。これからは講義のテキストで参照された本を買って自分で勉強するようにと言われました。 私は素直な生徒ですからテキストに参照と書かれている本は最低でも一冊は読みました。おかげで本が100冊ほど本棚に並びました。そこでこれらの本で学んだことやまだ理解していないことを別の言語に当てはめて勉強するようにしました。まず対象に選んだのが中国語です。その体系を理解するためにまずは「源流」を探索する事にしました。 やってみて分かったことはそれがやたらと難しいということでした。しかもどこにも回答が準備されていないということも分かりました。中国語はまだ源流探索が終わっていない言葉だったのです。 *** このような探索の訓練を受けてませんのでまず手始めに金田一春彦氏の『日本語』から中国語との関連がありそうな項目を抜き出して表にしてみました。外観だけでもつかもうと思ったからです。 この表から見ると中国語は文法・単語的にはアジア東南の言語と似ているが音韻的は異なることが分かりました。また異なる言語形態の日本語はあまり参考にならないことが分かりました。 表の中で気づいたことの一つに、金田一氏は中国語には日本のような「コ・ソ・ア」近・中・遠の三指示はないと言われていますが、中国の最初の王朝と言われる「夏」の都があった山西省には現在でも「コ・ソ・ア」近

日本語能力試験とTOEICの関係

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日本語能力試験とTOEICの関係 TOEICは今や日本のサラリーマンにとって大変なプレッシャーです。学生さんにとってもTOEICは入社試験の足切りに使われますから得点が気になるでしょう。 ところでTOEICは一体何点取れば良いのでしょうか。それを外国人が受ける日本語能力試験との比較で考えてみたいと思います。 図は日本語能力試験とTOEICとの関係です 。 この図で分かりますように、日本語能力試験の最高レベルのN1クラスでもTOEICでは650点以上にしかなりません。 根拠は →実用日本語検定「J.TEST」 。 それならTOEICは650点あれば良いことになります。 事実日本の一流企業や大学はこのレベルで外国人を受けいれています。これが日本の大学や企業が期待する日本語能力のレベルだと言えます。 私が社内翻訳者として働いていた大手電機メーカーでも外国人の中途採用は日本語能力試験の一級(N1)を持っているかどうかで判断していました。 社内には何人かのN1取得者がいました。会話はそれほど流暢でない人でも、メールや報告書ならちゃんとしたものが出せます。言い回しがさほど上手でない人でも意味の言い違いをすることはありませんでした。このレベルになると、少なくとも自分の実力が分かりますので、不安があれば自己チェックをするかまわりの日本人に確認をします。 そういう意味で日本語能力試験N1相当がTOEICの650点レベルならTOEICで達成した後はもう試験を受ける必要はないでしょう。しかし会社はそうは思っていないようです。 そこにはTOEICと日本語能力試験の微妙な違いが存在するからです。 *** TOEIC と日本語能力試験の違い J.TESTがどのようにしてTOEIC 650点をN1級相当として割り出したか分かりませんがこの TOEIC 650点とN1の比較にはやや注意が必要です。 N1の合格はN1に限定された問題を60%以上正解すれば合格できるという学力試験です。一方TOEIC の方はプロフィシェンシーと呼ばれる運用能力が問われるテストです。業務知識の有無、素早い反応、その上で英語力が問われる試験です。日本語の →N1クラス の問題例から分かる通り運用能力や俊敏性とはあまり関係がありません。 さらにTOEICには誤差が加

英文法ソフト Grammarly

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Grammarly on MS Word Grammarlyという英語の文法ソフトを使いました。 無料で試すことができるソフトですが、金を払わないと「Oops!」「文章が短すぎる」などの理由をつけてだんだんとリクエストをはねつけることが多くなります。しかし英検二級程度で英語を書かざるを得ない人には有用なソフトだと思います 。 Grammarlyを使い始めて2回契約を継続しました。つまり3年使ったことになります。 最初に使い始めた一年間は、英語の文章を入れるとあちらこちらでミスが指摘されて、時にはA4原稿のミスが2桁にものぼることがありました。 その上、なぜそう指摘されるのか、そのミスの原因さえも理解できなかったことがあります。 それで適当に当てずっぽうに単語の位置を入れ替えたりしてみましたが、なかなかミスは消えません。 そのようにGrammarlyは自分の能力を認知させてくれます。 2年目に入るとだいぶ使いなれて来ました。 基本文法に忠実な文章であればミスの出現はほとんど防げるようになりました。 つまりこのソフトはぎこちない文章であっても文法さえ正しければそれでパスしてくれます。そのためには文章はできるだけ短くして、句点、区切りを指示された通りに使えばともかくは使えるようになります。しかし文章はブツブツと切れた感じになります。 ちなみにネーティブの書いた流暢な英文をGrammarlyにかけると多くのミスが指摘される場合があります。 3年目に入った現在は翻訳をしていても時には使わない場合があります。 使う時はほとんどが翻訳後のチェックです。冠詞の抜け落ちや時制の不一致、スペルや句読点のミスなどのチェックに 使っています。このような使い方だけで年間 使用料の15,000円は個人にとってやや高いように感じます。他にさまざまな用途で使えるようですが 結局3年で契約継続をやめました。 英語の翻訳が毎日ありました頃は使う値うちがありました。

時代を映す歌

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香港空港で展示していました。 作者の名前を記録するのを忘れました。もうしわけありません。 時代が後戻りしているような気がします。集団的自衛権とは戦争へ向かう道だと言われています。 平和な日本、戦争を放棄したはずの日本が、戦意をあおるニュースや解説などであやまった方向へと導かれているような気がします。 そんな時代に抵抗した庶民の歌がありました。 よさこい のんき節 すーちゃん節 ノーエ節 デカンショ節 十九の春 ストトン節 ああわからない 東京節 ダイナマイト節

日本語を学ぶ

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京成谷津団地に育だつフェイ・ジア 大阪YWCAの日本語教師講座を受講し始めて早くも10ヶ月が過ぎました。講座は、日本語教師の資格を得る420時間の受講時間が最短でも一年半かかる地についたものです。 他の学校なら同様の講座で長くても一年、短ければ半年で終わるものです。しかし私はこの時間割を選んだのは間違いなかったと思っています。更には一年半の講座を三年かけて学びたいとさえ思っています。 学び始めて分かったことは、日本語教師になるには、大学で語学や国文学を専攻したか、または国語の教員資格を取得している人でなければ、日本語教師の知識を獲得するには相当時間がかかるということです。 日本人にとって日本語とは、やや古い言葉ですが、自己薬籠中の物、手慣れたモノとして、簡単に教えられるように思えますが、ところがどっこい、それを教えるとなると、知識として、つまり薬籠(薬箱)の中から取り出した薬の効用を知らないと、病人に与えるとと百害あって一利なしと逆効果になる可能性があります。 よく例に出されるのは、外国人の初心者が質問をする「は」と「が」の使い分けですが、実はこれには定説がなく、教える人さまざまで、いつまでも外国人を悩ませるようです。私も大胆に、中国語を使って対照言語的にまとめられないかと一月ほど悪戦苦闘してみましたが、結局水泡に帰し、あとで多くの研究にあたりました。 まあ、10ヶ月間大したことはマスターできませんでしたが、成果としては、今まで独学では分からなかった国際音標の知識が分かってきたことと、『平家物語』の文面をさほど違和感なく眺められるようになったことです。