自分史の「節目」

1966年 紅馬車
前回は自分史を書くのに心理学を応用することを書きましたが今度は節目について書いてみます。自分の人生を振り返る自分史には幾つかの重要な節目が利用できます。

ラカンという心理学者は中断を好みました。「何かが中断される時点が時間の流れの中で際立って知覚される」とフィリップ・ヒルが『ラカン』の中で書いています。

また「中断されたという時は人生に差異や葛藤やジレンマが起きた時」だと言っています。

男性の節目を調査した心理学者レビンソンは「男」の人生には3つの大きな節目がある。それは17歳から22歳、40歳から45歳、そして60歳から65歳の3つの節目だと言っています。私にもこの節目がありました。私にとって最初の節目は1966年から始まりました
  
「節目」抜粋:

横浜中華街の正門、善隣門を出て石川町に向かと次の交差点の左にサパークラブ紅馬車がある。この辺りは港から近く、米軍宿舎がある根岸・本牧も近かいので外国人をよく見かけた。まだ日本はまずしく土地柄のせいもあってか紅馬車の客はほとんどが外国船の船員か在日米軍の士官や下士官であった。高校一年生の私は学校が終わると日が暮れるのを待ってここに来てバイトをした。

中学校までは大阪で住み込みの新聞配達員として学校に通ったが、横浜に来てから水に当たり、一週間も寝込んだ私は配達店をくびになった。その苦境を見かねて同級生が親戚に頼んで入れてくれたのがこの店である。

 十字路をはさんだ向かいにはナイトクラブのゴールデン・カップスがあった。学校の先輩の実家だった。先輩たちはバンドを組んで店の名前と同じゴールデン・カップスでグループサウンズ全盛期を謳歌していた。紅馬車の向かいには神戸牛のステーキレストランがあった。日本人にとって神戸牛どころかステーキさえ食べられない時代だった。客はすべて外国人だ。

紅馬車の経営者は台湾人であった。横浜の中華街を牛耳るのはおもに広東人であるが上海人や台湾人の勢力もばかにはならなかった。中華街と言えば当時も中華料理が中心である。その中でも広東料理が盛んで何百人も入れる大型店がいくつかあった。上海人の店はあか抜けてきれいだったが彼らが得意なのは洋服の仕立てと理髪店だった。素朴な台湾料理はまだ無名だった。

中華街の大門から少し離れた紅馬車は60坪ほどの二階家だった。上がサパークラブ、下がカウンター・バーと小さなディスコフロワーがあった。二階にも一階にもドーナツ盤のレコードがたっぷり入ったアメリカ製のジュークボックスが置いてあった。

サパークラブの方には豪華なシャンデリアがぶら下がっており白いグランドピアノも置いてあった。真ん中には小さなダンスフロアと壁を背に十人ほどがかけられる白い革張りのソファやそれより小さいソファ席がいくつもあった。そして見えにくい店の角には1ドル銀貨であそべるスロットマシーンが置いてあった。どうやら違法で運び込んだらしい。

私はまずサパークラブのボーイから始めた。

中略

船の出入りが少ない時、オーナーの友人がやって来た。近くで宝石店を営む広東人の夫婦である。旦那の方はゆったりとした絹の背広を着て、ごつい指に大きなヒスイの指輪をはめていた。夫人の指には大粒のダイヤが光る。夫人のまわりをホステスがすぐにとり囲んで「わぁ!これ何カラット!」、「ネックレスも全部ダイア!」とさかんにごきげんを伺った。

この客はいつも店を借り切っていた。貸し切られるとホステスもマネージャーもボーイも客に呼ばれてお相伴に預かった。ヘネシーのXOが惜しげもなく開けられ全員のグラスに注がれて行った。

戦時中、山下町一帯は爆撃で焼け野原となって役所の土地の登記記録も燃えてしまった。最初は米軍の占領地であったが順次日本側に返されるとその土地を目当に抗争が始まった。

登記証明ができないので早い者勝ちである。本来の持ち主であった日本人は恐れをなして陰に隠れていた。だからよそ者だけの抗争である。付近に住む朝鮮人、台湾人、そして広東人が争いに参加した

土地ぶんどりのやり方はこうである。まず戻される予定の土地の四方をひもで囲って自分の土地だと主張する。そして用心棒をつけて守らせるが相手も負けてはいない。武器をもって押しかけては用心棒を追っ払っては土地を囲う。それに対し更に取り返すために襲うのである。そして何日間そのような争いが続いた。怪我人はもちろん死人も出た。

引き渡される日の朝方まで抗争は続いた。呼び出された役所の人が確認に来ると土地を確保している方の登記を行った。このような抗争から財をなした一人が宝石商だった。

紅馬車のオーナーは性格が温和だったせいかそれとも台湾人だったせいか土地争いには参加しなかった。戦前の台湾人は日本籍でいわば自国民である。少しは肩身がせまかったのかも知れない。

   オーナーの妻もやって来て客の夫人に同席した。二人は友だちのようである。客が武勇伝を語るとオーナーは「毎晩ピストルの音を聞いた」、「日本刀で人が追われる姿を見た」、「あんなに恐ろしかったことはなかった」と臨場感をもり立てた。客はそれに乗せられてか、自分が使ったピストルは何々で自分は人を殺さなかったがどこどこの誰が大型のモーゼル銃を入手して相手を撃った。そしてその傷は無残だったと思い出話に興奮していた。

男たちの話を無視して、夫人たちとホステスたちは宝石の品評会に忙しかった。そして客は帰る時ホステス、ボーイ、マネージャーと調理場の料理人まで全員にひとり一万円をくれた。


一ヶ月ほどして私は一階のバーにおろされた。そしてバーテンに変わった。当初アルバイトの勤務時間は深夜十二時までと決められていたが、サパークラブは客が残れば従業員とホステスは何時までも帰ることができなかった。それにブロークンであったが少しは客と英語で対応ができるようになった私を店も重宝した。いつしか勤務は深夜二時から三時まで、時には早朝にまで及んだ。そうして学校を休むようになった。アルバイトを紹介してくれた友人に学校から注意を受けたことを話すと、友人がオーナーに相談して学校へもちゃんと通える十二時で閉店する一階のバーへと回されたのであった。


海外のホテルの中にはたいていくつろげるバーがある。仕事を終えて夜行くところがないビジネスマンがポツリと一人で酒を飲んでいるようなバーだ。そこには小さなバンドが入り、ちいさなディスコフロアがある。そんな雰囲気のバーがその一階のバーだった。

そのような客と話しをする女性たちが居た。彼女たちは店の雇われではないが、ドリンクをおごってもらえば売り上げの半分をバックしてもらえるからアルバイトがわりにやってくる女性たちだった。
彼女たちは出来るだけ高いカクテルをねだった。もうおごってもらえないと分かるとすぐに次の客のそばのスツールに移動した。そして飲めるだけ飲んだ。アルコールはグラスの表面に薄く浮かすだけだから幾らでも飲める。客は酔い潰そうという魂胆があるからいつまでも酔わない彼女たちのドリンクにほんとうにアルコールが入っているかといぶかって自分で飲む時があった。だから私はいつでも表面に薄くアルコールの膜を浮かべた。

二階に客がいない時、ホステスたちは家に帰ったりバーに下りてきた。お客が外国船籍の人だから船が入らないと彼女たちのお目当ての客は来ない。それでも店は一度は出勤させる。他の店に引き抜かれるのを警戒するからだ。

ホステスの中に体の大きい目鼻立ちがはっきりとした女性がいた。サパークラブで働いていた頃、船長である彼氏に頼んで私だけにチップをくれた女である。彼氏がいない時は早くからバーにやって来てお酒を飲んだ。客からのおごりも受けたが、あなたに付けといてと何時もリベートを私につけてくれた。

「ああもう三十よ。なんとかしなきゃ」と言うのが口癖である。タバコの煙を口から細く天井に向けて吐いては消えるまで眺めていた。時々頬をポンポンと叩いてドーナツをつくり私に向けて吹きかけてくる。「英語が出来るから何でも出来るじゃないですか」と言うと、「こんなブロークンな英語じゃ、まともな仕事にはつけやしないわ」と吐き捨てるように言う。そして、ジュークボックスで流行りの「500マイル」をかけて歌詞を口ずさんだ。

***

この時期私は大阪の家を離れ横浜に移りました。生活的には完全に自立を強いられました。病気の時に助けてくれたのは学校の友人で親兄弟ではありませんでした。そして夜の社会が私と接触し大切な節目を形成してくれました。

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