自分史を書く

自分史というものを約5年にわたり書いてみました。文学学校の習作として添削もしていただきました。いま考えるとそれは自分のこころのどぶ掃除だったように思います。そしてすっきりしたかと言いますと実は溝の中の汚泥をかき乱しさらなる混乱をもたらしたような気がします。

自分史というものはひとつの混乱を機に書かれるように思います。私の場合も心の分裂で体がかってな行動をとり始め、本来は穏やかで平凡な暮らしをしていた私に困惑を与える日々を押し付けて来ました。困惑な生活自体は決して不愉快なものではありませんでした。いままで全く縁がないと思っていた世界が一気に押し寄せて来たからです。しかし穏やかな生活を趣旨とするとだんだんと手がつけられなくなりました。そのように生きようとは思っていなかったから結局自分史を書いて対抗することにしました。

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自分史を書いて分かったことは、現在の自己と過去の自分は現在も一人の人間の中に生きており対決し融合を図らないと苦しいということでした。さらに自分とは、実はこの生身の自分だけでなく、すでに亡くなっている兄や父まで、あるいはその先祖父までもつながる自分であって時には兄や父や祖父や母方の大叔父や叔父などがひっそりと生きており、また時には大活躍をするいう実に驚異に満ちたものでした。

例えば祖父の生きた時代は明治の末から昭和の戦後までですが、その間をどのように生きたのか、住んだか、性格や対応したであろう事件を同時代に生きた人物から類似的に探し出しそれを描写してみるなど実に血湧き肉躍る行為もありました。

人間は無機物から単細胞さらには多細胞の人間までを最初からくり返すと言います。自分史はほんとうにそれを実感させるものです。

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