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淡水河

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堤防より長沙街を見る 淡水河 淡水河は台湾の北部を流れる大河である。 標高三千五百二十米の大雪山系品田山を発し、台北市の西側を流れ淡水で台湾海峡へと流れ入る。全長は百六十キロ、台湾三番目の大河である。しかし地図上で淡水河とあるのは台北市の南西萬華(バンカ)区から河口の淡水までのわずか二十三・七キロに過ぎない。上流の大漢渓の百三十五キロが加えられているからである。 品田山から流れ出る大漢渓は、一旦は西に下るが、石門で北東へと方向を変え、台北・桃園平野へと流れ出て、台北市の南西で淡水河に流れ込む。上流の石門には現在ダムが建設されて昔の面影はないが、以前は石門渓谷と呼ばれ森林資源が豊富な地帯であった。 淡水河にはもうひとつ源流がある。新店渓である。この河は台北県の南部、双渓郷に水源を持つ。標高は七百米で、全長は八十一キロと大漢渓よりは短い。この河は台北市に向かって北上してくる。河は山間部を流れて、たびたび蛇行をする河である。特に台北南郊の新店では、深いS字形に蛇行した後、台北市の南西部で更に蛇行してから淡水河に流入する。 ふたつの河が合流する辺りに台北市の萬華区がある。この辺りは台北市が、そこだけは南西に凸出した地域である。萬華は台北市の発祥の地でもある。十八世紀の初め、向いの福建省泉州から移住して来た人々によって拓かれた町である。当初は蕃薯市と呼ばれていたが、その後艋舺(バンカ)となった。バンカとは、漢化した原住民ケタガラン族の丸木舟を指す「ヴァンカア」から来た言葉である。この辺りでケタガラン族の丸木舟をよく見かけたことによる。それに艋舺と言う当て字が使われた。艋舺は大漢渓の木材を集める木場として発展した。そして日本が植民地にする前までに艋舺は「一府、二鹿、三艋」と(呼ばれるようになった。 一府とは、清朝の政庁が置かれていた台南の安平府。二鹿は、天然の良港である彰化の鹿港。そして三艋とは艋舺(バンカ)のことである。日本の占領時代、「バンカ」が日本語の万華の音に似ているとして万華と書かれるようになった。そして光復(日本の台湾返還)後は、今の萬華が使われるようになったのである。 萬華は台北市の発祥の地だけに古い物も多く残されている。中でも台北市の古刹龍山寺は派手な装飾で日本人観光客にも人気がある。このお寺の観音様は現世利益の神様として台湾人

翻訳の歴史 (Quoraに書いたもの)

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翻訳の前に先ず言語をスイッチする通訳から説明します。 古代から隣の部族との交渉の必要性から部族の女を嫁がせて嫁ぎ先で子供を生ませました。この事は社会的に考えられた事ではなく自然の優性遺伝の影響があるようです。チンパンジーにもこの習性がありますから人類発生以前の本能かも知れません。 隣の部族へ自分たちの部族の女性を嫁がせるのは台湾の原住民にもよく見られる婚姻関係です。 たとえ首狩り族同士で激しく敵対しているタイヤル族のグループ間でも、部族が違えば言葉が通じないことははザラにあります。それで何らかの交渉が起こる可能性がある、例えばタイヤル族で最も開けている埔里の埔社蕃と山向こうに住んでいる最も凶暴と言われた土瓜蕃でもこのような姻戚関係が結ばれていました。 女性たちは必要に応じて通訳や道案内になり、時には商業にたずさわって両者間のさまざまな仲介をします。そして子供が成長すると更に複雑な任を担います。男の子は言語のエキスパートになり争いがあれば交渉の任にもあたります。 このような口頭での言葉のスイッチングは小さなグループ間の間はさほど複雑ではありません。またその心的な理解も地方と個人に根付くものですから大規模な共通言語は不要です。ここでなら心がほぼ通じ合っているからです。 あまり言葉が通じない外国人同士の婚姻関係がうまく行くのもこの辺りの以心伝心的コミュニケーションで事足りるからかも知れません。 *** ところが翻訳となるとそう簡単ではありません。 なぜなら翻訳には双方の言語に文字がありフルセットの言語が文語化できる条件が揃っている必要があるからです。通常部族段階ではありえません。 文字が出現するのは征服帝国の出現とほぼ同時だと言われています。征服帝国とは部族間の連合による大部族の集団ではありません。この大部族集団のコミュニケーションも口頭の通訳で事足りるからです。そこには第三者の文化の強要と規則の順守の必要がないからです。 文字が中国で出現するのは殷の中期以降です。より開花するのが後期です。殷は中期以降徐々に周辺の異民族を取り込んで行きます。つまり征服して自分たちの土地を広げて行くのですがその時に多くの占いを行いました。 占いは最初は占い師が占ったのですが、後には占い師の占いに対し判断は王にゆだねられるようになりました