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東北人 開墾魂

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商談が終わり契約を待つ茶メガネの私1988年 中国人について考えてみたいと思います。 中華人民共和国の中国人に接したのは1973年が初めてでした。 その人たちは中国東北にある鞍山製鉄所から神戸製鋼所に発注した設備の検収のために半年ほど神戸の華僑が持つ洋館に住んでいました。 それまでは大陸から来た人たちと言えば、子供の頃台湾で出会った国民党系の人たちです。彼らはどこか暗くて、プライドが高く、日本人の子どもである私は、お近づきをするにはちょっと怖いなと思いました。 ところが神戸で出会った鞍山の人たちは底抜けに明るくて、友好的で、宿舎としていた神戸の洋館の庭でバトミントン大会を催したり、餃子パーティに招待してくれたりして、台湾で聞いていた「恐ろしい共産党員」のイメージとはほど遠いものでした。 彼らが日本に来たのはその年の春でした。日中の国交が回復したのがその年の9月でしたから、それまでは公安警察がつねに身辺につきまとい、周辺がピリピリとしていた時代です。しかし彼らは至って平然として生活をエンジョイしているように見えました。 このような人たちの根底には何があるのでしょうか。それについて考えてみたいと思います。 *** 鞍山製鋼所の人たちは東北人でした。 中国の東北人について、魯迅は「北方の人間の良さはその重厚さにある、だが重厚さは往々にして愚にとられかねない」と言っています。もう一人の文人の林語堂は「素朴な思考と艱難辛苦な生活に慣れた、背の高い、身体が強健な、熱情的でユーモアに富み、大葱を好み、冗談が好きな人間」と表現しています。 私は1987年から1989年のあいだ延べ2年ほど東北三省の都市の電話局に電子交換機を売るため行き来したり長期滞在することがあります。 私が接触した東北の人たちも魯迅や林語堂が言っているような人たちでした。しかし商売のやりとりとなるとまた違うものを感じました。 「北方の人間の良さはその重厚さにある」ということは軽薄を厭うということで説得がむずかしいと言う事にもなります。口先の理屈では話が通じません。絶対的な現実が必要ということです。 しかも相手は旧満州時代日本語を学んだ可能性があります。日本側の説明の中にあいまいな点があると、かならずそこをついてきます。さらに「愚(直)」ということを武

名前でみるヤマト王朝

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古事記 歴代天皇 新唐書の東夷伝には日本の使者が高麗に日本の国名の変更を求める箇所があります。 「咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」 「咸亨元年(670年)、日本は賀平という名の使者を高麗に送り、中国語を学習させます。そして「倭」という名前を嫌い、日本という名に変更します。その使者の言うことには、わが国は日の出に近いゆえにそう名づけた。あるいは日本という小さな国があったが、倭に併合されたのでその名を使うことにした。」(と使者は説明します。) 実際に日本が唐に国名の変更を申し入れるのは、則天武后の時代です。 賀平が中国語を学び「倭」の意味を理解してから20年以上後になります。当時の唐の皇帝は女帝の武則天でした。彼女は日本も女帝の持統天皇であることを知って日本に好意をもっていたので、国名変更はスムーズに行ったという逸話があります。 この話が本当であればヤマトという名前は本来は縄文人がつけた名前である可能性があります。 表は古事記の歴代天皇の名前の構成を分けたものです。 個々の名称を辞書やWebで確認しましたが、ほとんどが分からずじまいでしたから、独断での構成になっています。 この表で見ますと初期の頃は男性を表す「ヒコ」が使われています。 「ヒコ」がなくなることに「ワケ」が出てきます。 →「ワケ」 は国名の最後につきますから地域とか国の意味だと思います。そうであればその地域の豪族の名前かも知れません。事実この「ワケ」がつく時代を河内王朝の時代として王朝交替があったという学説があります。 「ヤマト」という名前は「ヒコ」の時代にはたくさん出ますが、その後は清寧天皇に一度現れただけでその後はありません。

国生みからみる弥生時代の勢力図

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国生み 接頭辞順 イザナギ・イザナミのミコトの国生みでオノゴロ島と水蛭子、淡島の後に現在の日本の島々が生まれました。その順番は一見秩序はなさそうですが、しかしそれなりに意味があるようです。 まず生まれた島を名前順に書いていきます。 1) あわじのほのさわけのしま (現在の淡路島) 2) いよのふたなのしま (現在の四国)    ・エヒメ (現在の愛媛、うつくしい乙女の意)    ・イヒヨリヒコ (現在の香川、米を産する男)    ・オホゲツヒメ (現在の徳島、アワを産する女性)    ・タケヨリワケ (現在の高知、雄々しき男子) 3) おきのみつこのしま 別名アメノオシコロワケ (海原の沖合にある3つの島) 4) つくしのしま (現在の九州)    ・シラビワケ (現在の福岡)    ・トヨビワケ  (現在の大分と福岡の一部、豊の国)    ・タケヒムカヒトヨクジヒネワケ (現在の佐賀、長崎、熊本)    ・タケビワケ (現在の熊本南部と鹿児島県、熊襲の国) 5) いきのしま 別名 アメヒトツバシラ (現在の壱岐、離れ小島の意) 6) つしま 別名 アメノサデヨリヒメ (現在の対馬) 7) さどのしま 8) おおやまととよあきづしま 別名 アメノミソラトヨアキヅネワケ     (現在の本州、五穀の豊かに実る島の意)    以上が大八島国生みです。そしてその後にオノゴロ島に戻り、また6つの島を生みます。 a) きびのこじま 別名 タケヒガタワケ (現在の岡山県児島付近) b) あずきしま  別名 オホノデヒメ (現在の小豆島) c) おほしま  別名 オホタマルワケ (所在地不詳 瀬戸内海の島か) d) ひめじま  別名 アメヒトツネ (現在の大分県姫島) e) ちかのしま 別名 アメノオシオ (現在の五島列島) f) ふたごのしま 別名 アメフタヤ (現在の五島列島) *** 国生みで一番最初にちゃんと生まれたのが淡路島でしたから、本居宣長はオノゴロ島は淡路島付近の絵島だと同定しました。しかし私は絵島が火山島ではないことから済州島ではないかと考えました。 *** まずこれらの地名を分析して行きます。 ことばには接頭辞というものがあります。ある単語のまえにつけて何らかの属性を加える

オノゴロ島再同定

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チェジュ島(済州島) Wikipedia 前回『古事記』にあるオノゴロ島とは台湾南端東の海上にある蘭嶼島か火焼島(緑島)ではないかという仮説を立てました。 その根拠は「縄文時代の西日本ではポリネシア語のひとつが使われていた。その単語の全ては母音終わりである」(大野晋)という点にありました。 たしかにむかし蘭嶼島や火焼島に住んでいたアミ族のことばはポリネシア語であり、且つあ・い・う・え・おの五母音を使う母音終わりのことばです。そうであれば大野晋氏の仮説とかぎりなく近くなります。 ところが『古事記』の神話の主人公は弥生人です。 『古事記』全体が関わってくるのは弥生人の歴史であり、縄文人がかかわる部分は被征服者としての部分になります。そうであれば国生みの神話は隼人(熊襲)や蝦夷(東夷)とは関係はなく、扱いも違って来るでしょう。だからそのように分けて考える必要があります。 弥生人の出自はむかしは朝鮮半島だと思われていましたが、最近は中国の東南部からの渡来が有力になって来ました。ではその線で考えてみます。 *** 弥生人が中国の東南部から渡って来たとなるとオノゴロ島の場所が変わります。 この場合、オノゴロ島を台湾の付近だとは言えなくなります。なぜなら弥生人の人骨と近似する人骨が見つかった場所は山東省、江蘇省、安徽省のあたりで、もし水稲栽培が発達した河姆渡遺跡がある浙江省も入れたとしてもいずれも黒潮と偏西風から考えると台湾に向かうにはやや難があります。そこで韓国のチェジュ島=済州島が浮かんで来ます。 済州島はオノゴロ島の条件である自凝島つまり海底火山が噴火後に冷えて固まった火山島である条件を満たします。 チェジュ島経由で弥生人はさらに東の五島列島か対馬・壱岐の島を経由して九州北西部にやってきた可能性があります。オノゴロ島でまず産んだ二つ島が役に立たなかったのは、水稲栽培で生計を立てていた弥生人にとって、五島列島の二つの島も対馬と壱岐の島も小さくて役に立たない島だったのでしょう。それで水蛭児と淡島と名づけて無視したのではないでしょうか。 ***