名前でみるヤマト王朝
古事記 歴代天皇 |
「咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」
「咸亨元年(670年)、日本は賀平という名の使者を高麗に送り、中国語を学習させます。そして「倭」という名前を嫌い、日本という名に変更します。その使者の言うことには、わが国は日の出に近いゆえにそう名づけた。あるいは日本という小さな国があったが、倭に併合されたのでその名を使うことにした。」(と使者は説明します。)
実際に日本が唐に国名の変更を申し入れるのは、則天武后の時代です。
賀平が中国語を学び「倭」の意味を理解してから20年以上後になります。当時の唐の皇帝は女帝の武則天でした。彼女は日本も女帝の持統天皇であることを知って日本に好意をもっていたので、国名変更はスムーズに行ったという逸話があります。
この話が本当であればヤマトという名前は本来は縄文人がつけた名前である可能性があります。
表は古事記の歴代天皇の名前の構成を分けたものです。
個々の名称を辞書やWebで確認しましたが、ほとんどが分からずじまいでしたから、独断での構成になっています。
この表で見ますと初期の頃は男性を表す「ヒコ」が使われています。
「ヒコ」がなくなることに「ワケ」が出てきます。→「ワケ」は国名の最後につきますから地域とか国の意味だと思います。そうであればその地域の豪族の名前かも知れません。事実この「ワケ」がつく時代を河内王朝の時代として王朝交替があったという学説があります。
「ヤマト」という名前は「ヒコ」の時代にはたくさん出ますが、その後は清寧天皇に一度現れただけでその後はありません。
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