父の言葉 母の言葉
東北弁は昔の京都弁 内藤湖南 |
単一民族と自称する日本人も方言から見ると幾つかの民族に分かれるようです。日本人が思っているほど日本人は単一ではありません。
日本人の民族構成は旧石器の時代がどうだったかは分かりませんがまずは縄文の民族が居てそして稲作が持ち込まれたが鉄器がなかった弥生前期民族更に鉄器と水利を持ち込んだ弥生後期の民族が考えられます。その後も中国や朝鮮半島から民族が渡来しますが弥生後期から古墳時代にかけて現在につながる日本語が完成したと思われますから縄文人と二波に分かれる弥生人の言語が注目されます。
言語学では方言を音韻、形態、構文などで分析しますが私は単純に音韻を母の言葉として構文を父の言葉として考えてみました。
***
日本語とは
日本語は混合言語だと言語学者の村山七郎は言います。混合言語とは何か『日本語の起源』の中で村山は「雑種」だと表現しています。つまり日本語は一つの祖語から変化した言葉ではなく2つ或いはそれ以上の言葉が合わさってできた言葉ということです。
可能性としてはアルタイ系の諸語と南島系の諸語のどれかが複数混じって出来上がった言語ということになります。
その理由は日本語の構文はどう考えてもアルタイ系です。一方日本語の身体語彙のような基本となる語彙の中には南島系の言葉が多く含まれて居ます。遺伝子的にもそれが証明されます。
日本語の底流に南方系の言葉が有りその後アルタイ系の文法を持つ朝鮮南部の言葉が日本に入って来て日本語が成立したと言ったのは国語学者の大野晋です。
彼は後にインド南部のドラビダ語が日本語の起源という説に変わります。しかしながら当時ドラビダ人が日本に来て鉄と稲作を伝えて言語を標準化したのであれば後に述べる秦の広東屯田兵士のように人数的にも期間的にも相当な規模が必要で父系遺伝子にも変化をもたらしたはずです。しかしドラビダ人系のY-DNAの痕跡は残されていません
***
方言について中国の場合を見てみます。標準語も方言の一種とみなします。
中国語の場合は標準語は北京語と一般に言われますが実態は中国北方の広い範囲で使われている言葉です。
この北方で使われる言語を総称して「北方漢語」と言います。大きく分けると8つの方言になります。この範囲の方言は互いにわかりにくいのですがなんとか聞き取れる範囲にあります。これを私は弱い方言とします。
一方北方漢語という漢語以外にも上海語や蘇州語を含む「呉話」や広東省や香港で話される「広東語」、そして台湾や向かいのアモイで話される「閩南語」などがあります。これらも8つですがこの8つの方言区の言葉は互いに理解することができません。
北方漢語を含めて9つになりますが互いに理解できず学ぶことも困難です。これらを強い方言とします。しかしながら9つの方言の構文はほぼ共通です。
なぜに互いに理解できない言語の構文が一緒かと言うと中国の本当の標準語「文言」という文字で書く言葉を考えざるを得ません。
「文言」は凡そ3000年前に確立した言葉ですが約2500年に「雅語」として整理され共通語として使われ始めました。秦の始皇帝が中国全土を統一するとその筆記体を文字も含めて統一しました。
始皇帝は天下を統一すると支配下に入った遠隔地に多くの軍人や官僚そして兵士を送り出します。その規模は時には50万人に達しました。高級官僚や軍人達は家族と共に移ることが可能でしょうが兵隊は若い独身者が多かったはずです。彼らはその地に根を下ろし現地の女性を妻にしました。
生まれた子供たちは父の言葉を話しますが音韻は母から受け継ぎます。また生活では母の出身民族に多く依存しますので現地語も得意です。高級官僚や軍人或いは知識階級の妻たちがそれぞれの子供たちに正しい発音を教えても多寡が違いすぎます。中国人は一夫多妻ですから多くの子供は現地の妾からも生まれます。2-3代も過ぎると現地の発音が標準となって何時しか混合語になります。
この様にして生まれた広東語は秦代の音韻の残骸を残してはいますが純粋なものではありません。しかし構文は公務で使われ続けて広東語と他の方言とも「雅語」の影響を受け続けます。
9つの方言分布→母系に見る中国語の分布。
日本にも強い方言と言うものがあります。
例えば鹿児島弁のような言葉です。鹿児島弁は日本語ですが日本語の特徴の一つであるモーラ言語ではなく音節言語です。また鹿児島弁には朝鮮語に似た入声のような最終母語音の脱落がみられます。鹿児島弁は日本語には間違いありませんがこの様に特殊ですので縄文人とも違う母系だった可能性があります。
鹿児島人つまり熊襲はヤマト族と戦います。また音韻体系から純粋な縄文人とは言えないようです。私には鉄器をもたらしたヤマト族より先に日本に渡ってきた前期弥生人と思えます。
彼らは稲作を持ち込んだがその生産性は悪く縄文人は見習わなかったという説があります。弥生時代が500年古くなりこの時期は稲作に大きな進展がなかった時期で縄文人はもとの狩猟採取の生活に戻ったと言います。
コメント