倭人とは
55年前住んでいました台北の家 |
「倭」は、通常背の低い人の国と解釈され、当時の日本人は背が低かったと解釈されます。ところが邪馬台国の倭人は南島系(ポリネシア系)の血をひくと考えられています。実際に現代の日本人の脳もサモア人に似ていることが分かっています。
サモア人といえば大相撲で一世をふうびしたハワイの人たちのようなたくましくて大きな人たちです。そのような先祖を持つ日本人を倭人 - 背が低い人というのはおかしくないかと思います。
漢字源に倭は「日本及び日本人をさしたもの。背が曲がって丈の低い小人の意」と書いてあります。中国の最も古い辞書である『説文解字』に「倭」という文字はありませんが「委」に人偏をあとから加えたものと考えると「委」の意味を求める必要があります。
私の手元にある『説文解字』を元にした字典『中文字譜』(http://zhongwen.com/)に拠れば倭には「稲穂の実った様。女性」という二つの意味があり、そのどちらも卑弥呼の時代の日本を表しています。南中国の稲作文化を導入した国、そして女性が治めている国ですから、「倭人」を小人の国という解釈ではなく、稲穂の実る女性が治める国の人と考えてはどうでしょうか。
この他にも「倭」という民族は中国北西部にもいました。北西部ですから騎馬民族あるいは狩猟民族と考えます。しかしこの地域は粟や稗の畑作も盛んです。「禾」は稲のみならず五穀をさします。そしてこの民族は母系制の民族でした。父系の強悍な遊牧民族の中で農業を生業としており、尚且つなよなよとした女性が支配しているということで「倭」という字があてられたのではないでしょうか。
だとすると「倭」を「背が低い」と解釈したのは、その後日本の留学僧などが漢字を学び、矮小の「矮」と字が似ていることで、蔑視だと考えて言い出したのかも知れません。そしていつの間にかそれが定説となり、悪字を改めようと「倭」を「日本」に変えてもらったのではないでしょうか。
「日の本」という国名の変更を認めたのは、唐の則天武后でした。則天武后は女性でしたが自らも漢字の文字を創りだすほど漢字の意味にこだわりる人でした。「倭」の「女」は跪く(ひざまずく)女性の姿を写している字ですから、彼女にとっても屈辱的字だったかも知れません。それで日本の国名の変更を受け入れたのでしょう。男性の皇帝だったらこうは行かなかったと思われます。
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