日本語語彙の二重構造
日本語の命運が尽きたのは蘇我入鹿が暗殺された時でしょう。入鹿の心には日本は終わったなとの思いがあったでしょう。
その時から日本の文化は中国化が進み日本語は土台だけを残して語彙のほとんどを中国語(漢語)の支配下に置きました。さらには公文書から日本語が排除されて文法も漢文に統一されます。言語が終われば民族も終わりです。思考方法も変わります。日本はもはや大和民族の日本ではなく中国に冊封された国家になりました。それと同時に国名もヤマトと呼ばずに「に・ほん」または「にっぽん」と漢音読みにするようになりました。
「にほん」・「ニッポン」の意味は日の出る国と日本人は主張しています。しかし当時の唐の理解では東側の辺境の国でその向こうにはもう海と太陽しかない国」という意味です。ましてや朝ぼらけですから中国の承認を経て辺境に組み込まれたお陰でこの化外の地が薄ぼんやりと明るくなったと言うほどの意味です。言語学に詳しく「日本」の名付けを承認した唐の則天武后ならそれ位は考えていたでしょう。
この時から本来は素直な輪であったヤマト語に漢語のトポロジー位相が入ったと同じことです。それから日本人の思考は永遠につながらないメビウスの輪のようになりました。
語彙(単語体系)とは何でしょうか。それは人類が営々と営んで来た思考体系の整体です。
一つの単語は孤立した単語ではありません。そこには音と意味が複雑に絡み合いそして脳や体の中で神経や電子を通じて瞬時にその語源を探し出して無意識だが体系的には合理的なネットワーク層を作り上げる意味の体系です。つまり語彙は解析ネットワークの根元なのです。
しかも現代ではこの思考や言語の連絡には量子的な要素が絡んでいる事が分かって来ました。つまり人間の言語処理は現在の0と1でしか計算できないコンピュータではなく量子的な「うなり」や「重なり合わせ」などの複雑な要素を利用しているのが考えられるようになって来ました。
しかし日本語にはこの漢語を取り入れた断絶的な二重性を持っています。複雑な問題を考えるとすぐに「思考停止」になりやすいのはそれは一万年も続いた縄文語の発達とその語源への遡求の道を絶ったからとも考えられます。
天智天皇からの権力を引き継いだ天武天皇はどうもスッキリとはしなかったでしょう。それで日本の文化は日本語でもって残すべきだと日本の最初の歴史書の『古事記』の編者の太安万侶を命じて既に漢字化した日本語を歌を限ってヤマト言葉で残させます。
「さて其を彼阿礼に仰せて、其口に誦うかべさせ賜ひしは、いかなる故ぞといふに、万の事は、言にいふばかりは、書にはかき取がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊に漢文にしも書ならひなりしかば、古語を違へじとては、いよゝ書取がたき故に、まづ人の口に熟誦ならはしめて後に、其言の随に書録さしめむの大御心にぞ有けむかし」と。しかし流れは如何ともし難かったでしょう。
天武天皇や太安万侶のように真に言霊のことを知る一部のヤマト人以外の中国系の官僚や朝鮮半島系の渡来人と彼らの言うことを金言玉語として受け入れた知識人たちはその後果も考えずに日本人としての終了感に活き活きと浸ったでしょう。まるで自分たちも一挙に中華文明と肩を並べたと誤解したでしょう。米軍占領後のアメリカ文化を喜んだ現代人にも一脈通じるところがあります。
天智天皇はそのような国がどうなるかを知っていたはずです。中国には先例がありました。それは北魏です。北魏は国だけではなく文化も消滅してしまいました。
一方中国の漢語は約6000年間はそのような変化がなかったことが分かっています。そのせいか中国人は戦略的な民族だと言われています。その理由には中国語の語彙を構成する語源をしっかりと持っているからだと言えます。
語源を基本にした語彙体系は一義的ですから矛盾を排します。ところが日本語の60%を占める日本の漢語の単語は借り物です。結果真に考え抜かれた語源を持ちませんから思考の堅牢性に欠ける事になります。日本語の漢語語彙は強いて言えば具体物を指すには困らないが抽象的な考えを操作することは出来ない単語群だという事になります。
外来語を捨てて漢語を捨てて自前の日本語を作り思考を結合する。
このことを同じ冊封国家であった韓国やベトナムは気付いたようです。それで今は漢字を捨てて音韻だけの語彙体系を目指しています。つまりこれらの国々では自前の語源を持つ語彙づくりが始まったのです。遠い道のりでしょうが最初の一歩は確実に踏み出されました。それに比べると日本語は大化の改新で終了したままです。未だに始まりのない国です。言語なき民族は外来語を使うことで思考が停止しますので民族としては終了したと同じことです。
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