私の中国ビジネス
私は中国ビジネスに1973年から従事して、様々な事を体験し、それぞれの期間によい影響を与えてくれた人たちに沢山出会いました。しかしその中で最も大きな良い影響を与えてくれたのは日中の国交が回復するまでに日中貿易を支えてくれて尚且つ中国に対する私の姿勢を固めてくれた中国屋と呼ばれる諸先輩たちです。
彼らが中国屋と呼ばれるのは中国ビジネスの専門家だからではありません。もともとは貿易業務などを知らない一般人です。ですから大学を卒業して貿易会社に入った人に比べれば業務能力では劣ります。年齢も上ですから柔軟性にも欠ける面もあります。しかし人と人の付き合いに於いては彼らを凌げる人は誰もいないでしょう。
私の会社にも数人いました。私は数社を渡り歩いてますので数人は数社になります。しかしどの会社にも最低一人は居ました。彼らが中国とのもっとも太いパイプ役を務めていたからです。
中国貿易と言えば今やアメリカとの貿易を抜き日本の貿易全体の20%を超えるようになりました 。すでに日常化しており今や日中貿易無くして日本人の衣食住の基盤が危うくなります。日本人の収入の一部さえも占めるようにりました。しかしそのスタートは心ある人たちにより1949年の10月から1972年の9月まで実に23年のあいだ小川のように細々と流れて来ました。常にこの流れを断ち切ろうとする反対勢力の蠢動、しかも中国貿易は反政府的だと見なされ常に日本政府の公安部門の監視に耐えて営まれて来ました。
私は小学校時代を台湾で過ごした台湾育ちですからまさか台湾では鬼のように言われていたいわゆる中共貿易に加わるとは思っていませんでした。ましてや台湾の親戚も政府の要職についていましたから中国との関係を問われるとまずい事になります。しかし子供が生まれて背に腹は代えられません。それで台湾の親戚との往来を断ち切って中国貿易専門の会社に入社しました。そこで出会ったのが諸先輩方です。
このような人との出会いは初めてではありませんでした。私は中国研究所の付属中国語研修学校の本科四期の卒業ですが、同級生に年配の女性がいました。彼女は福井から上京して全日制半年間のこのコースを学んでいました。自己紹介で何故そこまでしても中国語を学びたいのかを聞かれると彼女は「中国人に恩返しがしたい、夫の罪滅ぼしがしたい」と言いました。
敗戦の時土地を取り上げられた付近の農民がおおぜい押し寄せて来て彼女の夫をマサカリで殺します。彼女にも押し寄せるとその中の数人が「この人を殺してはいけない。この人を殺してはいけない。彼女は小作の我々を主人からかばって何度も骨折するまで殴られてくれた。彼女が我々の上に被さってくれなかったら私たちも他の人同様殴り殺されていただろう。だから彼女を殺してはいけない」と言って暴徒から彼女を守ったそうです。
このような話は日本ではマスコミに圧殺されてしまいます。だからめったに聞くことがありません。そしてこのような言論のバリアーが私を洗脳する事を台湾で国民党の教育を受けた私にはよく分かっていました。
中国屋と呼ばれる人にはもう一つの特徴がありました。
彼らはほとんどが満州からの引揚者です。しかも戦後直後ではなくしばらく経ってからの引揚者です。中には朝鮮戦争に中国志願軍の医師や輸送兵として参戦した人もいます。
奈良県から満蒙開拓少年団として満州に渡り終戦後に中国解放軍に入った奥村さんは中国の東北地方から最南端の海南島まで解放戦争に参加しました。従軍期間は五年に渡り戦闘の日々でした。
彼とは最初の会社で知り合いよく一緒に仕事をしました。最初に入ったら会社は冬には天津甘栗を焼いて組合に卸していました。だから大阪、神戸、和歌山と電電公社、神戸製鋼、住友金属と社長の出身や取引のある会社の組合に頼んで焼いた甘栗を納入に行きました。途中で話が弾みます。
良く生き残れましたねと言いますと、ははは、若かったからね、と笑い飛ばしました。しかし本当は満蒙少年開拓団の宣伝に騙されて満州に来て開拓団とは現実には中国人の農地の収奪だと分かり戦後そのままでは帰れなくなったので解放軍に参加した、という苦渋の決断があったようです。
彼から鉄壁と言われた四平市を如何に塹壕を掘って攻め落としたかを聞きました。四平市は東北の交通の要衝で10万人の都市ですが、ここに国民党と共産党の両軍合わせて40万人の兵力が投入されました。4度にわたり大会戦があり結局解放軍が勝利して東北地方を固めて中国全土の解放をするのですが
なぜ武器も装備も劣る解放軍が勝てたかを聞きますと、どうやら中国人は時間を味方にするのが得意なようです。
とにかく人員の犠牲を少なくするため国民党が強打すると引いてしまいます。国民党が四平を落としても気にしません。最終的には周りの交通路を遮断して兵糧責めにしておいてから、弾の届かない、写真のような、郊外から鉄板を盾にして塹壕を掘りそれを四方八方から掘って攻め落としたそうです。まるまる2年にわたる長い戦役でした。
彼は「日本人の戦略は数年を考えるが中国人は数十年単位で考える」と言います。また中国人は自分の代で出来なかった事は子孫の代に任せても良いという考えだそうです。
そういう彼から学んだ事は死線を越える達観性です。北崎さんもそうでしょう。この世代の満州で育った人の中には長年付き合って生死を共にした時の中国人へを理解と深い愛情があります。だから日中の絆を切らさせない強さがあります。
もう一人1974年中国の貨物船の建設号が鳴門海峡で座礁した際に通訳を頼まれた会社の先輩がいました。中村好栄氏です。
国交が回復したとはいえまだ文革中の中国の虎の子の貨物船の座礁です。しかも景観が売りの鳴門海峡でです。日中間で大きな問題になりました。
私は中国から政府の役人と通訳が派遣されるか或いは在日華僑の大物通訳が大使館員と共に現れるのではないかと思っていました。しかし中国政府がお願いしたのは25人ほどの貿易会社の課長の中村好栄氏でした。
中村氏は国交回復前は日中間を行き来する貨物船の乗船通訳でしたが今は一般会社の社員です。鳴門海峡の流れが急で船の傾きも日に日に傾斜して行きます。中国政府は中村氏にお願いする際に「もし船を見捨てるようになっても構わないからその時は貴方の判断に任せる」と言ったそうです。船はCOSCOの物ですから中村氏が乗船通訳の時代にいかに信頼されていたかが伺えます。
中村氏を乗せたヘリコプターが傾いた建設号に氏を吊り下げて降すシーンはテレビでも中継されました。船は何時暗礁からずれ落ちて鳴門海峡の深淵に滑り落ちてもおかしくない情況でした。結局船は暗礁から滑り落ち中村氏たちはその前に船を離れます。
私が北京に初出張した時に同室の上司が自殺します。東大卒の人でしたからスパイ容疑が浮かんで来ました。結局スパイ容疑は晴れましたが何時間もの物証探しその間死体はぶら下がったままでした。
翌日中村氏がご家族に付き添って北京に来ました。悄げている私に彼の親しい人たちを紹介してくれてしばらくは北京に残らざるを得ない私により所を準備してくれました。
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