愛染祭り





    愛染まつり
       
愛染さんじゃ、ほぉえっかぁ~ごっ
べっぴんさんじゃ、ほぉえっかぁ~ごっ
商売繁盛、ほぉえっかぁ~ごっ



愛染祭を見るのは久方ぶりだ。
谷町線天王寺駅の改札を出るとゆかた姿の娘さんたちが男衆の掛け声にあわせて踊っていた。
これから宝恵かごに乗せられて愛染様までくりだすのである。まだ出発まで少し時間があった。浩二は少し見て行くかと思い、喫茶店に入りアイスコーヒーを頼んだ。

更新したパスポートを取りに行くと言って会社には半休を申請した。
定年過ぎての嘱託社員が半休を取ろうと年休を取ろうと上司は気にしなかった。若者なら行って取ってすぐに戻って来いと言われるだろう。さびしい思いはするが一方では気楽であった。
六十を過ぎてまだ嘱託として働ける自分が幸せなのだろうか、不幸なのだろうかと浩二には時々分からなくなるのである。

府庁のパスポートセンターは谷町線の谷町四丁目の駅の近くだった。家は藤井寺だ。その帰りに天王寺を通ったのが思いもかけずに愛染まつりの行列にぶつかった。
そう言えば浴衣の娘さんたちが駅の出口でお客様を出迎えると駅のポスターに書かれていた。それがここだったのだ。何かの縁かなと最近とみに運命論者になって来ていた浩二は思った。でもこうして喫茶店で向こう側の艶やかな人たちをながめていると浩二はなんとなく違和感を感じはじめていた。
愛染祭は年々にぎやかになっていくと新聞には書いてあった。それはそれで良いことだ。でも浩二にはなにか心を満たせないものがあったあれは四十年以上も前、あの深海の青のようなアセチレンガスが燃える光に照らしだされた光景は消えてしまったのだろうか。浩二は何時の間にか当時の光景の中へと入りこんでいた。
 
 * *

学校から戻ると上りカマチの前に靖夫の靴が置いてあった。昼間はめったにいない父である。不思議だと思いつつ浩二はベニア板製の戸をひらいた。
廊下から漏れ入る光が四畳半の部屋をほんのりと明るくした。
父と母の彩子の姿が見えた。
「ただいま」
「おかえり」
「おう、おかえり」
靖夫は壁にもたれていた。
お化粧をしている彩子の口がいやに赤い。
「戸を閉めて」
彩子が言った。
ぼんやりとした明るさに戻った。
「手伝ってくれたら悪いようにはしないと大津屋の奥さんが言っているのよ」
大津屋とは近所の公設市場の米屋である。彩子はそこのおかみからいろいろと仕事や生活に関するアドバイスを受けていた。
「宝来亭のご主人にも会ってみたけどとてもいい人よ。住み込みなら三食は出すと言っているし、給料も半分はあなたに渡すから、それなら納得できるでしょう」
靖夫はだまって聞いていた。
宝来亭とは、大阪の北にある中華料理店である。大津屋のおかみの紹介だった。
「五千円もあれば、あんただってもっと好きなことができるでしょう、このままではやっていけないことは分かっているし、菜津子は来年中三だからもう一年学校よ。晴枝は小学一年生になったばかりだし、浩二は六年生よ。大阪に来たら働くって言ってたじゃない」
「……」
彩子の話に靖夫は反応しない。
その間も彩子は化粧を続けた。
ミナミの飲み屋で料理を作る彩子、ママ化粧をするようにと言われたらしい。それまでは化粧をしたことがなかった母を浩二は別人のように感じた。

四畳半の隅に座り浩二は買ってきたばかりの少年サンデーの紐をほどこうとした。
付録全盛の時代はち切きれんばかり付録がついていた。早く中身をたしかめようと浩二は紐をほどかずに端へずらしてはずした。

「浩二、今日も提灯屋の金具作りに行くのか」
靖夫が聞いた。
「うん」
提灯の上下の輪っぱを成型するバイトをしたいと浩二が言いだした時靖夫は反対した。
プレスで指が挟まれては元も子もない。しかし浩二はどうしてもおかねが欲しかった。毎日彩子から十円をもらっていたが、マンガ雑誌だけでも毎週五十円が消えた。一番安い駄菓子のサイコロキャラメルだって五円はする。毎日は買えない。更にもう一冊のマンガ雑誌少年マガジンを何とか買いたかった。本体なら交換して読めるが、この二誌は付録が違っていた。一方が恐竜大図鑑なら、もう一方は力道山のすべて、一方がゼロ戦の模型なら、もう一方は戦艦大和の模型というふうに。発売されてまもないこの二誌は、当時の子供たちをとりこにしていた。

夫の反対にもかかわらず、彩子は浩二をつれて工場見に行った。工場と言っても汚れた四畳半の部屋だ。小さなプレスが二台置かれていて、 古い手動の方はもう使われてはいなかった。もう一台の電動の方は、左右のボタンを同時に押さないと動かない仕組みになっていた。
それを確かめてから彩子は浩二が働くことを許した。
彩子は浩二の働くことが靖夫の刺激になればと思ったのかも知れない。
彩子が化粧を終えて着がえ始めたので靖夫が立ちあがった。
「外に行ってくる」
「ねえどうするのよ」
カモイに掛けてあるブレザーを靖夫がとった。
「返事はどうなのよ。先方は待っているのよ」
返事をせず、靖夫は戸を開けた。
「もう知らないからね!」
靖夫は外から戸を閉めた。

昭和三十七(一九六二)年、浩二の一家は佐賀県の多久市から大阪に引っ越して来た。
東京オリンピックを控え、日本は好景気に沸いていた。しかしその一方で産業の構造改革が進み、従来エネルギー産業を支えていた石炭産業は石油産業にとって代わられた。多久市を含む筑豊の多くの炭鉱リストラの嵐が吹き荒れた。 

靖夫は炭鉱で働く人たちを客とする電気店に勤めていた。閉山にともなう鉱夫の集団移住が始まるとちいさな電気店はあっけなくつぶれてしまった。それと同時に彩子の洋服の内職もなくなり生活は困窮した。一家は生計を立て直すために大阪へ引っ越したのであった。しかし炭鉱で働いていなかったのでリストラされた従業員のように大阪での住宅は与えられなかった。

一家の新生活は浪速区下寺町二丁目の木造アパート四畳半の部屋から始まった
三月。外にはまだ寒さが残っていたが、浩二は外で遊ぶことが多かった。
「浩二風呂に行こう」
昼ご飯を食べてしばらくすると、靖夫が浩二を誘った。それはある土曜日のことだった。
二人は今まで一緒に風呂に行くことはなかった。それぞれ別の風呂屋に行っていたからである。浩二はアパート近く大きな風呂屋を利用していた。そこで同級生に会うのが楽しみだった。一方靖夫はわざわざ離れたところにある風呂屋に行っていた。
「父ちゃん、なんで下寺湯には行かんのや」
この頃になると浩二の大阪弁はすこし身についてきた。
「下寺湯には相撲取りがたくさんくるから、あそこは混んでだめだ」
「でも今はもうお相撲さんはいないよ」
「まあ、こっちの湯の方が気に入っているから」
「フーン」
大阪場所になれば下寺町には相撲取りがたくさん現れ。近所に寄宿する寺社があるからだ。靖夫は昼風呂に行くから、ちょうど稽古あがりの相撲取りと鉢合わせになるのだろう。

アパートを出ると夕陽が丘交差点の西側松屋町筋を北へと向かった。東側は寺町である。寺町は千日前筋から天王寺まで、約一・五キロの沿道に二・三百の寺社がひしめいていた。引っ越して来た当初、行くところがなかった浩二にとって、お寺の境内は格好の遊び場だった。

超心寺、大覚寺、満福寺と塀を見ながら浩二は靖夫の後をついて行った。さらに幾つかの塀を見て、生国(いく)(たま)さんがもうすぐという頃になって、靖夫はやっと西に入った。すぐ次の筋に「高津湯」があった。

高津湯は下寺湯に比べるとずいぶんちいさい風呂屋である。
玄関は小さく、下駄箱は少なく、脱衣所はせまく、こんな風呂屋のどこが良いのだろうかと浩二は思った。
浴室も小さかった。湯船もプールのように使えた下寺湯に比べると四分の一もあろうかと思える広さだった。でもその湯船は違っていた。八角形の湯船は浴室の中央にでんと据えられ、組み合わされた大理石は、明るくてまるで高級な瀬戸物の深い皿ようだった。下寺湯の安い白タイル張りの湯船とはまったく違っていた。
「どうだすごいだろう、ここのお湯は入り心地がちがうぞ」
靖夫が言った。
「うん。すごいね」
お湯は澄みきっており、切れるような鋭ささえも感じられた。
「すごいね」
もう一度、浩二は感嘆した。
「だろう。この風呂屋の主人は凝り性だからな。大分金をかけたらしい」
「でもこんな小さい風呂屋で大丈夫」
「ああ、ここは高津だからな、客の層が違う。下寺湯は昼間働いている人が客だ。だから夕方にどっと混むから広くないとだめだ。でもこっちは夜の商売人が客だからひと時には混まない。それに客層が違うからお湯の汚れも少ないしな」
下寺湯は朝早くても入れたが、ここは午後二時からが営業時間だった。そして深夜の二時まで営業した。二人はその日の最初の客だった。

しばらく湯に浸かっ靖夫は「ちょっと洗ってくる」と湯船を出た。
「ぼく、もうすこし浸かっている」
「のぼせるなよ」
この湯船から出たくないと浩二は思った。そして洗い場にいる靖夫の背中を見た。
靖夫の背中には大きな傷跡がある。肩甲骨から腰にかけて三十センチほどの傷跡である。第二次大戦前、潜水艦に乗務していた時大病を患い、肋骨三本を抜くという手術をしてかろうじて生き残った。戦争が激しくなると、靖夫も戦争に取られるだろうと彩子の親戚は言った。だがついに終戦まで召集はこなかった。つまり靖夫にはお国のお役に立てるほどの力が残っていなかったのである。

ガラ、と浴場の仕切り戸を開けて男が入って来た。
二の腕、太もも、脇腹にかけて全身刺青の初老の男であった。浩二をちらりと見て靖夫を見た。靖夫のとなりに行き下半身にお湯をかけた。ひと言、ふた言、靖夫と言葉を交わすと何かを笑い、そして湯船に向かって来た。恐ろしくて顔が見れない浩二の目にはぶらさがる男の一物がとても大き見えた。

浩二の正面から湯に入ると、男はくるりと背を向けた。
鬼夜叉が目をむいた。そして陰惨な顔で笑った。
その目の方向を見ると、肩の辺りの黒雲の中に、大きな龍がいて幾筋もの雷光を鬼夜叉に浴びせていた。せせら笑うように鬼夜叉はそれを見ていた。浩二は吸い込まれるように見た……。龍の下には大きな緋鯉が跳ねており龍に力を与えているようだった。澄んだお湯の中でそれらは生きていた。

「浩二、出て洗わないとのぼせるぞ」
靖夫の声を聞いて慌てて刺青から目を離して浩二は洗い場に向かった。
「浩二。ヤクザの背中をジロジロ見るんじゃないぞ。相手は刺青を彫って怖がらせようとしているのだ。ちらちら見るくらいがいいんだ」
「父ちゃん、怖くなかった」
「いや。時々見かけている人だから。それに背中の傷のことを聞いてきたから、潜水艦乗務中の傷だと言ったら、ご苦労様でしたと言ってくれて、それからはお互いに話をするようになったんだ、ヤクザも普通の人と変わらんよ」
 浩二は父の傷も大したものだと思った。
 もう靖夫と一緒に湯船につかっていると洗い場から男が戻って来た。
すこしのぼせたので「水風呂に入る」と浩二は湯船を出た。靖夫も「電気風呂に入る」と一緒に出た。

隅の方には電気風呂、ヨード風呂、水風呂が並んでいた。
水風呂は大きめだったが、電気風呂とヨード風呂はひとり用だった。浩二にとって電気風呂は怖いし、ヨード風呂は昆布を煮込んだようで気持ちが悪かった。
靖夫は目をつむり、全身をプルプルと振るわせ電気風呂を楽しんでいた。浩二には水風呂の冷たさが気持ち良かった。
「ここの旦那はいいなぁ。趣味でここまで出来るんだから……
靖夫の声は震えていた。
その時
「あなたぁ。新坊をもうそろそろ出すけど大丈夫」
と、仕切りの向こうから大きな声が聞こえた。
「おう大丈夫だ。いま上がるから」
「おねがいね。五分ほどで出すから」
「おう」
男はゆっくりと両手を広げ、お湯の中で伸びをして、また肩までつかった。
しばらくすると男は湯船から出て冷水をかぶり、体を拭いて出て行った。
浩二はヨード湯にそーっと手をいれてみた。
「おとうさんは庄内へ行こうかと考えているんだ」
靖夫がぽつりと言った。
庄内。あの宝来亭がある場所だった。
浩二は黙ってヨード湯をかきまぜた。

***

夏が近づくにつれ寺町は活気づいた。愛染まつりが近づいたせいである。
アパートや周辺には露店を生業とするテキヤなどがたくさん住んでいた。祭りの仕切りの会合だったり、掛け声の稽古だったり、とにかくまわりの大人が動き出したので、浩二の気持ちも浮き浮きとした。

愛染さんじゃ、ほぉえっかぁ~ごっ
べっぴんさんじゃ、ほぉえっかぁ~ごっ
商売繁盛、ほぉえっかぁ~ごっ

日が沈むとどこからか稽古の声が流れて来る。愛染様のお祭りをこの界隈の人々はみな待ち焦がれているのである。

愛染堂は、正式には四天王寺支院愛染堂勝鬘院という。聖徳太子が建てた由緒ある寺で、今も建立当時の多宝塔が残っている。
愛染様は、愛染不動明王という。お姿は、獅子のような真赤なお三つの目を持ち、手も四本から六本というとても派手な怒った顔をした神様である。ところが「人生の悟りは煩悩と愛欲の中でこそ開かれる」という、心持たってやさしい神様なのであった。そして縁結び、金儲けの神様とあっては大阪庶民にはぴったりだった。

愛染祭りは大阪を飾る最初の夏祭りである。
この日から娘さんたちが浴衣を着始める。それを目当てに若者たちが集まってくるからテキヤにとって最高のお膳立てだった。
浩二の部屋の向かいに、そのような生業なりわいをする若い夫婦者がいた。
浩二がお向いのアニイとよぶこの若者は、浩二たちが引越して来てまもなく移って来た。角刈りで素直な目をした若者は今年二十になったばかりだった。もう連れ合いがいて、彼女は二つ年上だった。
お寺の遊びに飽きると浩二はよくアニィの部屋へ顔を出した。
「おい浩二、なんでヤクザが出入りの時に晒し巻くのか知ってるか」
「知らん」
「これはな、出入りの時に水にぬらして巻けばドスが通らんのや」
……
「おいちょっと戸しめ」
姐さんが「子供に」と顔をしかめながら戸を閉めた。
「見て見イ。これがドスや」
押入れの奥から、刃渡り三十センチほどの短刀を取りだした。鞘から抜いて浩二に見せた。恐ろしく切れそうだった。

「使う時は、こう持たなあかんのや。刃を上にしてな、絶対に刃を下にしたらあかんで、血がつくと滑って自分の手ぇ切るからな。そうこないして心臓の下からぐっと刺し込むんや、そんで上へとぐっと押し上げるんや。最後に手のひらを後ろに添えてグーと押し込む……」
アニィは経験したように話した。
本人は自分はテキヤではなくヤクザだと豪語していた。テキヤをしているのは、今頼まれてテキヤの親方の用心棒をしているからだと言った。

「風呂屋ですごい刺青みたよ」
「そりゃ兄貴や。あの刺青は誰かってひとめ見りゃ分かる。兄貴の刺青は兄貴の人格くらい立派もんや。あんだけ細かく入れても、痛いのなんのとひと声もうならんかった。稼業でもひとつも失敗したことがない。その証拠に両手の指はちゃんと揃っているんや」
アニィの左手は、小指の第一関節から先はなかった。何かの失敗をして責任を取らされたらしい。立会人が居る前で、出刃包丁の先を使って関節から切り離そうとしたがうまく離れず焦っている所をみっともないと、立ち合った兄貴分がカナヅチで包丁の背を叩いて切り落としたのである。関節で切り離さなかったから、どんなに痛かったか、後からの痛みがどう大変だったか、アニィは顔をしかめて話した。

アニィも背中に観音様の刺青を彫っていた。それはまだ輪郭だけで色が入ってなかった。色を入れる時、十本ほどの針を束ねて、それに墨を含ませ一刺し一刺していねいに刺して、肉まで墨がしみ込んで行くのを待つ。更には綺麗な発色を得るために、腫れが自然に収まるのを待つ。薬はつけてはいけない。その期間がまた長くて苦しいのである。アニィは説明した後、そのようにして出来る刺青がいかにすばらしいものであるかを自慢した。でも浩二がいつ観音様に色を入れるのかと聞と、「その内に」と何時もお茶をにごしてしまうのだった。

六月に入ると愛染まつりの露店で出すうなぎ釣りの竿作りをアニィがはじめた。浩二にも手伝わせてくれた。
「おい、結びすぎたらあかんやないか。竿先は最初はこないにゆるく巻くんや」
アニィはゆっくりと手ほどきをした。
「そして最後にこないに巻いて、きつく巻かれているよう、見せるんや」
「うん」
「こないに巻けば、引っぱってからゆるめると、糸が自然にほぐれて来るんや。竿を回している最中、自然に抜けるんや」
「針はしっかり結んでもええで。針の結び目を見るやつは多いさかいな。針の結びがゆるかったら、インチキくさいと思われるさかい。ところが針にしかけがあるんや。ほらこの釣針は三本針や、三本針はくるくると回って安定がわるい。引っ掛けにくいんや。どや、よう考えているやろ」
「全部がそないやったら誰も遊ばんのとちゃう」
「大丈夫や。な、何本かはこないに丈夫に結んでおくんや。糸もちゃうぞ。これを時々まぜて客にあそばせたり、サクラに使わせるんや。一、二匹はまちがいなく釣れよる。お前にも使わしてやるさかいな」
アニィはサクラでも浩二を使う気でいるようだった。

愛染まつりの日がやって来た。
狭い愛染様の参道は片側にしか夜店を出すスペースがない。しかも愛染坂から谷町筋までの参道は二百米と短く、境内も狭いために夜店は谷町筋の道路沿いにまではみ出した。
谷町筋に出るとぼんぼり提灯も電線もなかった。それで店は自前のアセチレン灯をつけて商売をした。幅二米半、奥行き一米、深さ三十センチのブリキ張りのプール。半分ほど水を入れ、プールの三か所にアセチレン灯を立てて数十尾のうなぎを泳がすアニィの店もそこにあった。

「あかん、なんで今年はこんなにしけとんのやろか。去年やった奴は、よう儲かるでぇ、こんな儲かる商売はない、譲るのがおしいんやがぁな、他に用事があるさかいしゃぁないと言うとったんやがなぁ……
アニィはぼやいた。
うなぎたちは釣られる心配もなく気持ちよさそうに泳いでいた。

親子連れが一組来たがおやじが道具を散々吟味して
「これはあかんわ、こんなにゆるかったらすぐに外れよる、子供には無理や、もうちょいきつく結んでか。あかんならやめとくわ」
と、竿をもどして立ち去ろうとした。
「ちい待ってなー、ちゃんと結ぶさかいに」
アニィはしぶしぶ糸をきつく結ぶ。
そのおやじは、こどもにはさわらせもせず、上手に一尾釣りあげて、ご機嫌で帰って行った。その間見ていた客はいたが竿を買う者はいなかった。
「ああ、そんしてもうたがな。竿一本で一匹釣られたんでは大損や。あいつはよう知っとるがな」
アニィはぼやいた。
「酔っぱらいが来んかいな、酔っ払いは肝っ玉が太うなっているさかい、釣れなくてもあほみたいに金をつぎこみよるのに……
アニィの嘆きはつづいた。
むしむしとしていた天気は、何時か雨になるかと思われたが、なんとかもち堪えていた。何時降ってもおかしくない空模様のせいか客の出足はわるかった。

「うなぎ釣らんかぁ~、百円でまむしが食えるでぇ~。夏バテにはまむしが一番やでぇ~」
大阪人の大好きな蒲焼、白蒸ししない蒲焼、まむしの名でアニィは呼びこみをするが、参拝客はほとんど興味を示さなかった。それよりも天気が崩れるのをおそれて、さっさと家路を急ぐふうだった結局その日は十人ほどの客だった。

二日目も暑い日だったが、晴れていたので参拝客の出足はよかった。テキヤ稼業はまさにお天道様次第、昨日はちゅうちょした参拝者も、ぞくぞくと繰り出してきて好調であった。境内、参道はいうに及ばず、谷町筋の端の方まで人があふれだした。
この日、サクラをすることになっていた浩二は、まわりを歩いて客の様子を見ていた。近くの風船釣りや金魚すくいは大分繁盛していたが、アニィのうなぎ釣りだけは稼ぎがわるかった。誰もが興味深かそうに見て行くが、なかなか手を出そうとはしなかった。釣り代の百円はラーメン二杯に相当したから、ちゅうちょするのもやむを得なかっただろう。

何人かの子供たちがうなぎを見るためにプールを囲んだ。それを大人たちが後ろで見ている。アニィがめくばせをした。さあいよいよ本番である。百円をアニィに渡して竿をもらった。糸はナイロンが混じった強い糸である。落ち着いて釣れば問題はないはずだった。ところがいざ釣りだすと簡単には行かない。うなぎの口に針を掛けようと前に持って行くと、うなぎはすっと身をかわすのであった。
「私にも釣らして」
と、浩二の背中をたたく者がいた。姐さんであった。明日はお休みだから必ず行くね、と姐さんは言っていた。
浩二は竿を姐さんに貸した。
あっと言う間のことであった。姐さんはあまり動かないうなぎの後ろから、そぉーっと針を近づけ、エラが呼吸で広がった瞬間、そこに針をかけた。すぐに一尾釣りあげたのであった。
「これ袋に入れて」
と、釣ったうなぎを袋に入れてもらうと、浩二に竿を返して、うなぎの袋を手に持って夜店の中へ歩いて行った。
見ていた子供たちが「アタイも釣りたい!」「おれも釣る」とてんでに叫んだ。
数人の大人が子供に竿を買ってやり、アベックで竿を買う者もいた。
今度は浩二が釣りあげた。
「あかんわ。そんなに釣られてもうてはえらい損やぁ、首吊らなアカンがなぁ」
とアニィは大きな声でぼやきながら、浩二が釣ったうなぎをビニール袋に入れた。三尾目を釣ろうとしたが、糸が切れた、
浩二がうなぎの袋を提げて後で見ていると、客のひとりが釣りあげた。アニィは適当に良い竿をまぜて渡していた。
もうプールの周りは二重の人だかりである。もうちょっとという所で、糸が切れてうなぎに逃げられた客がまた竿を買った。
「釣らん奴は後ろで見てな」
アニィは前にしゃがみこむ子供たちを下がらせた。
プールのまわりはすべて竿を持った客で埋まり、竿を買っても割りこむ隙がないありさまだった。
「釣らんかぁ、釣らんかぁ、うなぎ釣らんかぁ、今晩はマムシ丼やでぇ~」
アニイは呼び込みを続けた。
いつの間にか姐さんが戻って来て、何食わぬ顔で手伝っていた。
あっという間に二、三時間が過ぎて夜が更けた。仕入れて来た百尾のうなぎも、プールに残るのは十尾ほどになっていた。
手じまいかなと思われた時
「この子にも竿一本かして」
きれいなおかみさんが百円玉をアニィにさし出した。
「あ、あねさん。兄貴」
アニィのびっくりした声の方を見ると、そこにはあの銭湯で会った初老の男がいた。
「ぜぜこはいりませんがな」
「まあええから取っといて、子供はちゃんとお金払ってこそ楽しめることをおぼえさせなあかんさかい」
あねさんと呼ばれた女性は百円玉をアニィの手に押しつけた。
「この子はまともな子供になってもらわんなあかんから」
……
初老の男は黙っていた。
「お前もそろそろ先のこと決めなあかんな」
と男がアニィに声をかけた。
「はい」
アニィは何時になく神妙に返事をしていた。

***

「浩ちゃん、あんた新聞配達せんか」
彩子と大津屋のおかみのおしゃべりを聞いていた浩二におばさんが声をかけた。
「浩二にはまだ早いわ。あれはしんどい仕事やさかい」
「いや、六年生でも、もうやっている子もおるよ。少なく配れば問題ないから。どうや、浩ちゃん行かんか、販売店の方にはおばちゃんから話をするから、すぐに仕事が出来るで、ちょうど冬休みの間、小遣いを稼いだらええがな」
「やりたい。かあちゃんエエか」
秋祭りも終わり提灯屋のバイトはとうになくなっていた。
「やりやり、絶対にやり」
大津屋のおかみさんは強引だった。その押しに彩子も根負けした。
翌朝の三時半、浩二は起こされて配達に行った。それは眠気だけでなく、寒さとの戦いでもあった。
新聞社のロゴの入った綿の作業着の下に、厚い毛糸のとっくりセーターを着ていたが、寒さはヤリのように突き刺さって来た。
専業の配達員は自転車のハンドルにはビニールの風よけ、上着には皮ジャンを着て十分に保温していた。浩二はそんなものを持っていないから、自転車をこいで配達区域まで行くと、重ねた軍手の下の手は氷のようにこわばっていた。
朝、販売店に行く途中、浩二には気になる場所があった。アパートを出て大津屋がある公設市場に向かい、その前を右に曲がると、いつも大人が輪になって焚火を囲んでいた。
市場から出る林檎箱やらどこからか運んで来たまくら木の欠けたやつを燃やし、めらめらと燃え上がるほのおで暖をとっていた。
黒い背中と赤い顔が炎を囲み、不思議な儀式をしているようにも見えた。

とても寒い朝、浩二は輪の後ろから火にあたることにした。
「ここの市場の奴らはこすからいぜ」
「ほんまや。焚き火しても良いけど、市場の前の道路を、向こうの松屋町筋まできれいに掃いてやっていいよる」
「りんご箱燃やしてもええけど、中のモミもちゃんと燃やして、灰は掃除しといてや、とぬかしよる」
「ほんまや。小銭貯めてるやつはせこうできとるわ」
「ぼうず、もっと前に出な、ぬくうならんで」
と、なっぱ服の男が隙間を作った。
「おおきに」
浩二は大人たちの輪の中に入った。
「何処行くんや」
向かいの労務者風の男が言った。
「新聞配達」
何年生や」
「六年生」
「まだ小学六年生か、えらいなー」
とまわりの男たちは感心した。
浩二は自分が一人前になったような気がした。
皮ジャンを着た男が、小さな亀甲模様の袋を腹巻の中からとり出した。
「ベンジン入れんとな」
と、袋の中からピカピカに光る金属の器を出した。そして上下をひっぱるとそれは二つに別れた。
「白金カイロか、ええな。おれも欲しいけど高いからな」
労務者風の男が言った。
「そやな。そやけどこれがないと、魚市場は下がぬれているさかい、寒うてどないにもならんのや。必需品や」
ゆっくりとベンジンを入れ終わると、男は火芯に火をつけて、暖まるのを両手で確かめてから袋に戻した。そして皮ジャンのすそを上げて下の腹巻の中に入れた。
浩二はこの白金のような器が暖まる物だと知ってほんとうにびっくりした。そして欲しいと思ったが大人でもなかなか買えない物だった。

「ぼうず、いも食うか」
とある若い男が言った。
見覚えのある顔だった。同じ配達所の従業員だ。
男は焚き火の下のモミ殻の灰の中から、芋を棒で刺して取り出した。
「田舎から送ってくれた芋や。しばらくはあるぜ」
もらった男たちはてんでに芋を左右の手に移し替えながらすこし冷えるのをまってほおばった。
「やっぱり芋は焚火にかぎる。枯葉が一番やけど、まくら木は火力が強うて速いな」
一尺ほどの折れたまくら木はあと灰を残すばかりに燃えていた。
「明日も頼むぜ」
「そんなに毎日まくら木が割れるかい」
と、浩二の横のなっぱ服の男が言った。
時間が来たので、浩二は受け取った芋を軍手の両手で挟み配達所へと向かった。
「自転車乗っている時さむいやろう。ここに」懐を指して「新聞入れとくと暖かいぜ。背中にも入れてもええで」
と一緒に配達所に向かいながら男は言った。
「おれも皮ジャン買うまでは寒うて震え上がったさかい」
確かに新聞を入れると格段に違っていた。
年をこす前、浩二は疲れから風邪を引いた。この時期は年末大売出しチラシが入り、新聞は普段の三倍の重さにもなった。チラシの代金は店主の収入だから、アルバイトはそれを嫌って理由をつけてやめて行った。
年の瀬が近づくまで田舎に帰った大学生の一部の区域を配っていた浩二は彼の全部の区域を配達させられたのであった。そのせいで疲労がたまり、風邪をひき高熱で寝込んでしまったのだった。そして配達をやめることを大津屋に頼んで販売店に言ってもらった。
「ほんまにあかん子やね。辛抱が出来ん子や。根性のない子やね」
と大津屋のおかみはさんざん浩二にいやみを言った。そして数日後、配った日数の半分ほどの給料をもらって来た。
「ほんまなら一円も払ってもらえないんやけど、おばちゃんが話してあげたさかい、これだけもらえたんや。ありがたく思いなはれ」
大津屋は紹介の礼金を受け取っていたので、その分を浩二の給料から天引いたのであった。後でそれを知った浩二は大津屋が嫌いになった。
こんな時靖夫が居ればと浩二は思った。力にはならないかも知れないが、せめて慰めてもらえるだろうと思った。
まだ冬休みだった時、浩二は一度、庄内まで歩いて靖夫に会いに行こうとした。そうしてアパートを出たが、日本橋まで歩くともう気が変わってしまった。行ったところでなにを話せばいいんだろう。自分のふがいなさを話すのか、おやじも働きたくないのに働いている。考えれば考えるだけ会いに行けなくなった。そう思って引き返す浩二の目に映る、電気街の新年大売出しのネオンがぼやけていた。しかし浩二は口をかたく閉じて目を見開いて家に向かった。

***

春が来て浩二は中学生になった。
新聞配達での屈辱が忘れられず、浩二は大津屋を通さずに自分で配達所に出向き仕事を申し込んだ。こんどは途中でやめないなと店主はしつこいほど確認した。
「まあやってみ。あかんかったらしゃーないけど、しかしみんなが困るんや。あんたもそんな根性やったら人生うまくいかんぞ。まあ期待せんけどやってみ」
とさんざん言われて、やっと配達させてもらえた。

気候が変わったせいだろうか、配達を始めるとさほど苦にはならなかった。もともと体が大きかった浩二は、骨格がさらに頑丈になり、重い新聞を小脇に抱えても、或いは自転車の荷台に一メートル近く新聞を積んでもふらつくことはなくなった。とはいえ大人と同じ仕事をこなすのは大変だった。夕刊を配り終わるともうへとへと、風呂に入ってくるとすぐに寝てしまった。

夏休み前のある日、店主からしばらくよその配達店で住み込みで働かないかと聞かれた。
高麗橋にある日本経済新聞を専門に配達する店は、夏休みに田舎に帰る大学生がいて、休んでいる間だけの応援をさがしているとのことだった。
日経は経済誌だから折り込み広告がなかった。部数に対する配達料は同じだったから、浩二は引き受けることにした。
浩二にとって初めて親元を離れる生活だった。しかもその配達店は自転車で走ればアパートから半時間もしない距離にあった。多少不安でもすぐに帰れる。浩二は親元を離れる不安よりも自由の方にあこがれた。

住み込みを始めてから、しばらくぶりに家に帰ると靖夫がいた。
「難波に行こう」
めずらしいことである。今まで風呂屋以外どこもつれて行ってもらったことがなかった。また多久にいた頃も浩二はどこにもつれて行ってもらったことがなかったから、ほんとうに想像もできないことだった。
「では行くか」
靖夫はブレザーをとった。靖夫はいつも身なりを気にして上着を手放したことはなかった。
難波の地下鉄の駅近く、御堂筋から少し入ったところにジャズ喫茶「バンビ」があった。表に「Coffee saloon BAMBI」とあった。浩二はそれまでこんなしゃれた店に入ったことがなかった。
厚いドアを押して入ると、ドンドン・シャンシャンという音が聞こえて来た。それにラッパの響き、今まで聞いたことのない音楽だった。
レジの後ろに青白いメータが二つついた箱があり、メータの針は同時に左右に振れていた。
「マッキントッシュだ。世界最高のステレオアンプだ」
靖夫が言った。
そして靖夫はレジにいたマスターに会釈をして何かを言った。マスターはうなずいた。
店内は広々としていた。広い階段があったから二階もあるのだろう。中はローズウッドのカントリー風に作られ、テーブルと椅子も同系色であった。椅子のクッションの表面には黒い原皮が張ってあり、いかにも高級感が漂っていた。
靖夫は一番奥の席に座った。目の前には大きな家具が置いてあっ、そこから音が出て来るのである。
「パラゴンだ。JBLのパラゴン、世界一のジャズスピーカだ」
と靖夫が言った。
三メートルほどの幅、高さは一メートル以上の箱は、表面が弓型の反射板で覆われており、中音域のホーンが両側に伸びていた。グロテスクと思えるような貫禄があった。

「マイルス・デービスのウォーキンだ。これが終わるとリクエストしたチャーリーパーカだ」と靖夫は言い、目をつぶった。「さあ音楽を聞こう」。浩二も目をつぶり、その陰気な音楽を聞いた。それからは月に一回ほど靖夫は浩二をつれてバンビに行った。

浩二中学二年生になった。この間の一番大きな変化は、姉の菜津子が中学校を卒業して、妹の晴枝と共に家を出たことだろう。
奈津子は卒業前から電話交換手の資格をとって、大阪ガスの交換手として就職することを決めていた。交換手なら夜勤もあって収入が多少良いことと、晴枝を引きとっても昼間面倒がみられると思っていたからである。母の彩子は賛成だった。
一方浩二は高麗橋の住み込みが終わると家からそう遠くない日本橋の配達所に移り住み込んだ。

同じ住み込みとは言え高麗橋とは大分雰囲気が違っていた。高麗橋は、配達員ほとんどが大学生か株屋をめざす人たちであった。彼らから聞く日々の話題は政治や経済のことだった。
ところが日本橋では、専業の従業員がほとんどで、彼らの話題はもっぱらスポーツ、芸能と競輪、競馬などのギャンブルのことだった。
夕刊を配り終わると全員が食堂でテレビを見た。店主は別の場所で家族とともに食べていたが、従業員の食事が終わると、たいがい顔を出して、誰々、どこどこへ集金に行って来いとか、勧誘に行かんかとか、命令をするのである。みんなはしぶしぶ立ち上がり、夜町へと散って行った。
浩二には集金も勧誘もなかったが、この雰囲気にはいたたまれず部屋に戻って本をよんだ。しかし集中はできなかった。そうして結局は難波の街へと出て、最終的には落ち着くのはバンビであった。

ある日浩二がバンビに行くと、一階は満席だった。階段を上がったが二階も同じような込み具合だった。
店内を見回したがどこにも空席はない。しかたなくもう一度一階空席を確かめようと階段を下りかけた。
その時、
「ここに座ったら」
と女性の声がした。
見ると常連のひとりだった。何時も二階の奥の方に居て、本を数冊広げて勉強している人だった。
お礼を言って浩二は彼女の向いに座らせてもらった。
ジャズファンはひとりで音楽を楽しんでいる人が多い。彼女もそういう一人であった。だから浩二は席には腰かけたが話はしなかった。
コーヒーを飲むあいだ、すこしだけ彼女を見た。
前髪で顔の半分がかくれてよく見えないが、きれいな女性である。齢は二十前後か、もう少し上のように思えた。目の前の灰皿には吸い殻がたまり、水商売の人かとも思えもしたが、化粧気はまったくなく、教科書のような本を読んでおりアンバランスだった

ある昼さがり、浩二はバンビから配達所へ戻る途中彼女を見かけた。
「おぅ。これからバンビ」
浩二は声をかけた。
「あ!もう帰るん
「うん。少し早いけど帰る。これからバンビへ?」
「いやパチンコ、一緒に行く
時間があったので、浩二はパチンコについて行くことにした。
彼女だけが球を買った。
「あなたのお父さん。ほら時々一緒にバンビに来ている人」
「うん。おやじを知っているんだ」
「お父さんバンビでもパチンコ屋でもよう見かけたわ」
「へー、おやじはパチンコをするんだ」
「セミプロ並みよ。だいぶ稼いでいるんとちぁう」
浩二の知らない靖夫の一面であった。おやじはパチンコでかせいでいたんだ。
しばらく台を見て回ってから、彼女はある台の皿に球をいれた。
「パチンコしたことある?」
「ない」
「ほらここの釘。この並んでいる釘を天釘っていうのよ。この二番目の釘をめがけて打つの。そして跳ねて、この天穴に入るように打つの」
彼女がばねを放すと、球は軽く天釘の二本目に当たり、ポンポンと天穴に入って行った。
「やってみる」
「うん。ちょっと」
彼女から球をもらって浩二はやってみた。
「もうちょっと指の力を抜いて。ばねは弾くんじゃなくて、抜くようにするんよ」
彼女はタイミングを教えた。
そのとおり打つと、浩二の台にも球がたまり始めた。彼女はと見ると、左手の球送りと、右手の弾くタイミングとがしっくりと合っており、球は命令されたように天穴へと入っていった。
そうして十五分ほど遊んでから、浩二は先に帰ると言ってパチンコ屋を出た。
次にバンビで会った時彼女のほうから浩二の席にやってきた。
「一緒に座ろうか」
「うん」
彼女は向こうの席から本やらペンやらを浩二の席に運んで来た。
「うち憧子(しょうこ)ちゅうねん。近大の一年生や、一浪したから十九才。学部は建築学部。女の行くとことちゃうやろ。そやから女は私ひとりや、男の子には負けんように勉強しているんや」
「おれ浩二ちゅうねん、ポン中(日本橋中学校)の二年生や」
「中二しては老けとるね。高校生やと思った」
「うん」
老けて見られて浩二は嬉しかった。
「そやかて自分、中学生でようここに来てるな。あんのか」
「住み込みで新聞配達してるから大丈夫や」
「そうか、一人立ちしてるんか、偉いなぁ、私も見習わなあかんな」
「そんなことないよ」
と浩二は言ったが、ほめられてうれしかった。
それから浩二は、先に来ると定席に座って彼女を待った。

ある日浩二はバンビで靖夫と待ち合せた
「どうだ元気だったか」
靖夫の声はいつもより硬かった。
二人が会うのはひさしぶりだった。
「ああ、大丈夫だったよ」
浩二は返事をしながら、すこしやつれた父の顔を見た。
「この曲が終わるとチャーリー・パーカーだ。チャーリー・パーカーの『 All the things you are』をリクエストしたよ。お父さんの好きな曲だ」
向こうには憧子が座っていたが、本を読んでいてこちらを見ることはなかった、
「お父さんは庄内の店をやめて東京に行くことにした。もうお前たちも一人前になったし」
「お母さんと」
「いや、お母さんは行かない。こちらの方が性に合っているそうだ」
なぜ別々に住むの、と浩二は聞かなかった。その時なぜか聞くべきではないような気がした。靖夫はすでに目をつぶり音楽を聞いていた。久しぶりなのだろうか、とても楽しんでいるようすだった。
そうはしていたが、五時までには店に戻らなければならないと言って、靖夫はまもなく目を開けた。
コーヒー代は俺が払うよ」
「そうか、お前に払ってもらうのは初めてだな。嬉しいよ」
靖夫は手を出して浩二と握手をした。靖夫の手は意外と柔らかかった。
靖夫が財布から一枚の写真をとり出して浩二に渡した。厨房で撮った写真であった。似合わないうす汚れたコック服を着て、笑っているような泣いているような、ピントがずれた写真であった。

地下鉄なんばの駅まで浩二は靖夫を見送った。もういいよここで、と何度も言うが、浩二は地下のホームに降りて行く靖夫の姿が消えるまで見送った。
バンビにもどると憧子は浩二の席に移っていた。靖夫のコーヒーカップは片付けられずに残っていた。そして靖夫がリクエストした曲が、やっとかかったのだった。
All the things you are
チャーリーパーカーにしては弱々しい演奏だった。浩二は寂しさがこみあげて来た。

「お父さん帰ったん
憧子が言った。
「うん、東京へ行くそうや、そんでしばらくは会えんと言ったんや」
こみあげて来るものを抑え、浩二は憧子と話せることに感謝した。
「これから男ひとりやね」
憧子には浩二の気持ちが分かるようだ。
「お父さん東京へ行ってなにすんの
「むかし東京で働いたことがあったらしい。その時一緒に働いた友達が喫茶店を経営してて、どうせ飲食店の手伝いするなら、喫茶店の方がエエって」
「そうか。……」
「これからパチンコ
「そう、六時から新装開店やから、もうちょっとねばらんとあかんわ」
「おれも、もうちょっとおるわ」
「あんた配達は
「今日は前々から頼んで、休みをとったんや。親父が会いたいと言うし、晩ご飯を食べるのかなと思ったから」
浩二はせめて一緒に食事をしたかった。

「なんでみんなバラバラに住むようになったん。九州から一緒に来たんやろ
「家せまかったせいかもしれんな。家族五人で四畳半やから、家に居る時、気つかんかったけど、高麗橋に住みこんだ時、なんやら気持ちがえらいすーとして、それからもうアパートに戻りたぁなくなったんや。姉さんも息が詰まっていたんかも知れんな。それに最近親父が戻るとお袋とよく言い合いになっていたしね」
「なんで?」
「なんでか知らん。言い合いになるとおれすぐに配達所に戻ったから。お袋の今の勤めがどうのこうのと言ってたけど」
「そう言えばパチンコの帰り、宗右衛門町でお父さんを見た。電柱の陰でタバコをふかしながら何かを見張っているような」
 「おふくろが働いている店は宗右衛門町にあるよ」
 「そう」
そこまで聞くと憧子は教科書に目を戻した。浩二も目をつぶって音楽を聴いた。しかし何時ものようにはのめり込めなかった。
その時、憧子が教科書を閉じるパタンという音を聞いた。
浩二は目をあけた。
「これ見て」
憧子はたらしていた前髪を持ち上げた。するとそこには白く濁った瞳が現れた。
「小学生の時、おとんのスクータの後ろに乗せてもらったら、バイクがこけて片目を失のうてしもうたんや。足も骨折して今でもびっこをひいてるし、足はそう目立たんからええけど、目はそうはいかん。私はその時人生が終わったような気がしたんや」
突然見せられた瞳は、きれいな顔にそぐわない死んだ魚の白眼のようであった。
浩二は一瞬ひるんだ。しかし気をとりなおし顔全体を見た。するとそこには何時もの憧子の顔があり、瞳の一点だけが白く濁っているだけだった。
なんでこんな綺麗な人を、よりによってお父さんスクータで事故に合わせて、片目を失わせるなんて、神様はどうもおかしい、と浩二は思った。

「可愛い顔をこないにしてもうたと、おとんは嘆くし、おかんはおとんを責めたけど、どうしょうもないこっちゃ。私は入院中に考えたんや、うちには娘が二人や、妹が居るから、じぶんはこれからは男になる。男の子が欲しかったから、ちょうどええやないかと、そう思って自分にも両親にも言い聞かせたんや。男やでぇって」
タバコの吸い過ぎで彼女の声はカスカスにかすれていた。
言い終わると、タバコを深く吸い込み、煙をためて、頬をポンポンポンと叩いて煙のドーナツを作って浩二を笑わせた。

六時が近づいた。かれこれ三時間ほど粘ったことになる。配達所の夕食はことわっていたので浩二には行く宛てがなかった。
憧子が教科書を片付けた。
「今日は愛染まつりや、一緒にいかへん
「パチンコは
「何時でも行けるがな」
うながすように、憧子が浩二の目をのぞきこんだ。
「うん。いこか」
憧子の気持ちが嬉しかった。
「ほな、家よって着替えるから」
二人は御蔵跡にある憧子の家まで歩いて行った。憧子の家は履物問屋であった。
家に入ると、大分経つのに憧子は出て来なかった。やっと出て来たとか思うと、なんと浴衣に着替えていたのである。
「どない。浴衣着るのんひさしぶりや、似おうとる
「うんよう似あっとる。きれいに見えるわ」
浩二が言った。
「なに言うとん、もともとがべっぴんさんやさかい、フフ」
憧子は笑った。
店の下駄を下ろしたのだろう、真新しい下駄をつっかけていた。
「急に浴衣着るちゅうから、おかんがびっくりして、あわててアイロンかけてくれたんや」
浴衣と下駄がとても合っていた。
「下駄もおかんが選んでくれたんや」
「……」
「なにぽけーと見とれとる」
「なんもあれへん。なんもあれへん」
浩二はうろたえた。

***
  
松屋町筋に出て口縄坂の前を過りすぎるころ日が暮れ始めて涼しい風が出て来た。
愛染堂、大江神社の入り口にはたくさんの人が集まっていた。二人は流れに沿って参道に向かった。参道へは、大江神社の階段を登るか、愛染坂をゆっくり上がっていくかの選択がある。二人は大江神社の階段を登ることにした。
コツン・コツン。大江神社の石段を打つ憧子の下駄の音はうれしげであった。目立たないが時々促音のような音が混じった。そんな時、憧子は浴衣の襟をさわった。
階段をのぼり終わるとそこはずいぶんの人出だった。
関東だきの匂いがして来た。
「何か買って食べよか
浩二は腹ペコだった。
「うちはいらんさかい、あんた食べ」
「うん、おれまだええわ」
食べたかったが、憧子の浴衣を汚してはと思い浩二は思いとどまった。
「遠慮せんかてええよ」
「うん。いらん。大丈夫や」
浩二はできるだけ匂いを気にしないようにした。
おしあいへしあいしながらも二人はなんとか本堂までたどり着き、お参りを済ませた。それからゆっくりと夜店を見て歩いた。

どこにもうなぎの釣りの店はなかった。やっぱり谷町の外の方かな。それともアニィはもうやめたのかな。浩二は思いながら歩いた。
時々憧子の知り合いに合った。
「憧子。誰ェ
「おとうと」
「あんた弟いたぁ
「うん。最近出来たの」
「またぁ~。でも元気そうね」
祭りでは誰もが明るくはずんでいた。
「おい浩二、えらいべっぴんさんを連れているんやないか、どないしたんや
と、突然大きな声が聞こえた。
「え、あ、アニィ」
なんと綿菓子を売っている店からアニィが顔を出したのである。となりに姐さんが立っていた。
「おまええらい手はやいな」
「エッ」
浩二は何のことやら分からずきょとんとした。
「お似合い~」
憧子が笑って言った。
「ように似おうとるわ、ええ組み合わせやがな」
姐さんも笑っている。
「アニィ、今度は綿菓子屋」
「そう、わしらもうこの商売に鞍替えすることに決めたんや、これから子供も育てなあかんし」
アニィ話すのを聞きながら、姐さんは横でにこにこしていた。
「そやねん。子供が出来たんや、それで兄貴に相談したんや。ほら、あのうなぎ釣りに来てくれた兄貴や。そしたら兄貴は、お前はヤクザには向いてないと言って、親分に相談してくれたんだ。それで親分から、いまさら堅気もむずかしいやろうと、こちらの親方に頼んで、テキヤにしてもろうたんや。富子の親もヤクザなら娘はやらんが、テキヤならしゃない、と納得してくれてな。そやからこれからはあきんどになるんや」
アニィは一気にしゃべった。浩二も人ごとながら、本当にうれしかった。
「お参りは済ませたんかいな
「うん」
「お祈りはなんやったんや
「内緒よ」
憧子がかわりに答えた。
二人は何時までも良い友達でいようとお祈りをしていたのである。

アニィたちと別れて二人は夜店をさらにあるいた。
関東だきに冷やし飴、べっ甲飴に回転やき、そして綿菓子の匂いが浩二を誘惑したが、もう浩二は空腹を感じていなかった。
もどりは愛染坂を下ることにした。
「この坂ちょっときついな。階段の方がいいんとちゃう
浩二は気をつかった。
「ううん。来たんやさかい、愛染坂も通らんと」
階段と違って、下りの坂は下駄が前のめりになる。だから普通でも歩きにくかった。ましてや憧子の足にはすこし無理だと思えた。鼻緒が指の間をこするのか、憧子はゆっくりと坂を下った。
「大丈夫
と聞くと、
「愛染様って人生の悟りは煩悩と愛欲の中で開けるというけど、ほんまやね。苦しまんと本当のことは分からんというのは、ほんまやね」
自分に言い聞かせるように憧子はつぶやいた。
「あんたも何時の日か、この言葉かみしめるかも知れんね」
浩二はなんか遠い将来、愛染様が二人をむすびつけてくれるような気がした。
パラパラと雨が降って来た。
「愛染パラパラやわ。愛染まつりでこの雨にあたると恋人同士は結ばれるちゅうんよ」
憧子が浩二の顔をのぞきこんだ。浩二はどぎまぎした。
「狐の嫁入りとちゃうか。すぐに止むで。縁日の客が帰らんうちにな」
浩二はアニィの商売のことを思った。
「あんたはほんまにええ子やねぇ」
憧子がかるく浩二の手を握った。
浩二の少しほてった顔に風が涼しかった。
見上げるといつの間にか雲が散り、満天の星が輝いていた。

 * *

  長い物思いから覚めた時、残されたアイスコーヒーは氷が解けて水になっていた。気がつくと行列はいつの間にか出発していた。


(了)

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