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中国語の源流を求めて (3/5)遺伝子回廊

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今回は遺伝子から考えてみました。 参考にしたのはネーチャーの論文 『中国人の遺伝子構造の空間的分析・・・』 です。 この論文は中国人の遺伝子が南北でどう違うかを調べたもので、言語とは直接関係はありませんが、遺伝子の分布は何らかの意味で言語の分布と関係しており、ちょっと考えてみました。 この図は中国における「K*」というY-DNAの分布の頻度を表したものです。この論文の発表者はこの帯状の分布を「チベット・ビルマ語族の回廊」と表現しています。確かに遺伝子の分布は現在のチベット・ビルマ語族の分布に近いものです。 「K*」という遺伝子は「K」の下流に発生した主流の遺伝子、例えばフィンランド人に多い「N」や中国、東南アジア、韓国、日本人にも多い「O」など多くの変異遺伝子の中には含まれないややマイナーな遺伝子と言えます。 しかしマイナーで且つ多様ですからオリジナルの分布に近いと考えることができます。言語でも最も多様に変化した場所がその言語が発生した場所だと言われています。 となるとシナ・チベット・ビルマ語族の漢語を含まないチベット・ビルマ語族はこの図の濃い色のところで発生したと考えられます。 *** 図の色の最も濃くて面積が大きい所は現在中国の雲南・貴州のあたりです。 そしてもうひとつブーメラン型のこの回廊の上にも二つの濃い小さな丸があります。ちょうど黄河文明が発生した地域です。これはチベット・ビルマ語族と分離したシナ語族、つまり漢語の発生の場所と一致します。 漢語つまり中国語は昔はチベット語やビルマ語と祖語が同じだったと言われています。 中国語とチベット語に分裂するとそれぞれが独自の語族となり多数の言語や方言に発展しました。普通ビルマ語はチベット語からの分離とされていますが、この図を見る限りはそうは言えないと思います。 言語は古ければ古いほど多様に分離すると言われていますからシナ・チベット・ビルマ語の分離の数をみなければなりません。 分析者にもよりますがチベット語族はビルマ語族を含めると数百種類になると言います。一方の漢語族は別言語と言われる晋語を入れても10種類ほどです。多様に変化するには時間がかかりますからチベット祖語と中国語祖語の比較では中国語は新しい言語ということになり

日・韓・中音韻比較

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日韓漢語語彙比較表 韓国語を始めてから1ヶ月がたちました。 私の勉強法は日本語と比較しながら韓国語を学ぶという方法です。 画面は大島正二氏の『漢字伝来』の補章の日本漢字音 と中国原音の対照と山村敏江氏の『訓蒙字解の音韻体系 』 を表にしたものです。 まだ字母の部分、つまり子音だけしか整理はできていません。それに国際音標の入力もうまく行っていませんが、まあフォーマットらしきものはできたと思います。 この方面に関しては更に良い材料を見つけることができました。 →カールグレン ( Bernhard Karlgren 、 1889 年 - 1978 年)の『中国音韻学研究』です。 それは中国語に翻訳されたものですが、 ウェブでダウンロードできるとは思ってもみませんでしたから、最高の喜びです。 私はカールグレインが苦心して集めた漢字のリストを使い、更に日韓両語の漢字音や中国各地の音韻の比較ができるようになりました。とはいえ、あまりそれに深入りはできません。 文法の方は『韓国語概説』の「文字」と「音韻」を読み終わりました。 これから「単語と品詞」に入ります。だいたい 3 分の1進んだところでしょうか。 まだハングル音が定まっていないので、表面をなぞっているだけです。あと数回は最初から読み直す必要があるでしょう。 これを書いてから勉強がほとんど止まってしまいました。またやる気が起こるのを待ちます。

倭人とは

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55年前住んでいました台北の家 倭人とは。 「倭」は、通常背の低い人の国と解釈され、当時の日本人は背が低かったと解釈されます。ところが邪馬台国の倭人は南島系(ポリネシア系)の血をひくと考えられています。実際に現代の日本人の脳もサモア人に似ていることが分かっています。 サモア人といえば大相撲で一世をふうびしたハワイの人たちのようなたくましくて大きな人たちです。そのような先祖を持つ日本人を倭人 - 背が低い人というのはおかしくないかと思います。 漢字源に倭は「日本及び日本人をさしたもの。背が曲がって丈の低い小人の意」と書いてあります。中国の最も古い辞書である『説文解字』に「倭」という文字はありませんが「委」に人偏をあとから加えたものと考えると「委」の意味を求める必要があります。 私の手元にある『説文解字』を元にした字典『中文字譜』( http://zhongwen.com/ )に拠れば倭には「稲穂の実った様。女性」という二つの意味があり、そのどちらも卑弥呼の時代の日本を表しています。南中国の稲作文化を導入した国、そして女性が治めている国ですから、「倭人」を小人の国という解釈ではなく、稲穂の実る女性が治める国の人と考えてはどうでしょうか。 この他にも「倭」という民族は中国北西部にもいました。北西部ですから騎馬民族あるいは狩猟民族と考えます。しかしこの地域は粟や稗の畑作も盛んです。「 禾」は稲のみならず五穀をさします 。 そして この民族は母系制の民族でした。父系の強悍な遊牧民族の中で農業を生業としており、尚且つなよなよとした女性が支配しているということで「倭」という字があてられたのではないでしょうか。 だとすると「倭」を「背が低い」と解釈したのは、その後日本の留学僧などが漢字を学び、矮小の「矮」と字が似ていることで、蔑視だと考えて言い出したのかも知れません。そしていつの間にかそれが定説となり、悪字を改めようと「倭」を「日本」に変えてもらったのではないでしょうか。 「日の本」という国名の変更を認めたのは、唐の則天武后でした。則天武后は女性でしたが自らも漢字の文字を創りだすほど漢字の意味にこだわりる人でした。「倭」の「女」は跪く(ひざまずく)女性の姿を写している字ですから、彼女にとっても屈辱的字だったかも知れません。それで日本の国名の変更