地名から日本語の源流を求めて
安部清哉氏の南北型方言分布よ |
この境界線の中の最重要地点は中国の淮河(図ではHuai River)です。この地点は北緯34度くらいで日本で言えば徳島市あたりになります。
淮河から西に向かい進むと西安市の南にある秦嶺山脈につきあたります。この秦嶺ー淮河線は降雨量1,000ミリの境界線であり気候のみならず言語・民族・文化の大きな境界線になっています。
実は日本語にとってもこの淮河ー秦嶺線が重要な意味をもっています。秦嶺ー淮河線の延長が日本語の南北方言の分布につながるからです。
日本語の祖語がなんであったかは分かっていません。
しかし日本人が多民族国家であることは遺伝子分析で分かっています。日本には有史以前に何回かに分かれて人類の渡来があり、その遺伝子が残されているからです。
南北型方言分布図で私が注目したのは河の呼び名と谷の呼び名でした。
大きな河を北では「河」とよび南では「江」とよびます。一方「谷や渓谷」は南では「渓」とよび北では「溝」とよびます。さらに注目したのは河の読み方は淮河を境界としている他にもう一箇所、中国の東北部にもこのような境界が一本縦に走っている点です。この線はなぜか朝鮮族と満州族のあいだを縦に割っています。
中国の東北地方はひとかたまりのようですが、歴史上諸民族が存亡をかけて戦った場所です。
その満州族側の大河は「遼河」とよばれ、一方朝鮮族側の吉林省や黒竜江省の大河は「松花江」と「江」が付きます。ちなみに南西の民族が多く住む珠江流域や長江上流の金沙江はともに「江」がついています。
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日本語にもこのような土地によって呼び名がちがう例があります。
安部氏の→地図一覧のなかに、鏡味明克氏の「溜池を『~堤』と称する地方」の南北図が入っています。PDFp30 (1984)
その地図では溜池を~堤と称する地方は、北海道を除き。九州の北西部から関門海峡を渡り山陰へ、そして日本海沿いに北上する印が示されております。印は東北に達すると太平洋側を含めた
東北全体まで広がります。
「溜池を『~堤』と称する地方」は日本を南北に分割しています。
Wikipediaによりますと
「古代では古墳の築造とともに池溝の開穿などの大規模な土木事業がおこなわれているがとくに池の開穿は国家的事業として行われ、古代の農事振興に重要な役割をもっていたことが知られている。
『日本書紀』には崇神朝に依網池、刈坂池、反折池を、応神朝に韓国池を、垂仁朝には高石池、茅淳池、狭城池を、仁徳朝には茨田堤・栗隈大溝・和珥池・横野堤を、履中朝には磐余池などを造るなどの多くの築堤記事が載せてられている。このほか風土記などでも摂津昆陽池、肥前土歯池、豊前の三角(薦)池などの存在が記録されている。履中天皇は磐余市磯池に両枝船を桜の時期に浮かべて遊宴しているという記事も見られる。『古事記』では垂仁天皇の子、印色(いにしき)の入日子の命により血沼の池・日下の高津の池とともに作られたとされる。このように大阪や奈良では4~6世紀ごろからため池が作られ始めたとされる。」
ここで注目して頂きたいのは渡来人の工事だと思われる関西の溜池のほとんどが~堤ではなく「池」がついている点です。ただ仁徳朝には「茨田堤・横野堤」があります。しかし茨田堤は河の堤防で横野堤も河の開削による堤防だと思われますので、溜池が~堤とよばれることはなかったようです。
溜池を~堤とよばない地域は基本的に気候が温暖で稲作に適した場所です。
現在日本の溜池ランキングは:1位 兵庫県、2位 広島県、3位 香川県、4位 山口県、5位 大阪府とほぼ瀬戸内地方に集中しています。ではなぜ稲作をもたらした弥生文化の中心地北西九州だけが「~堤」の地域に含まれるているのでしょうか。興味があります。
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