淡水河
堤防より長沙街を見る |
淡水河は台湾の北部を流れる大河である。
標高三千五百二十米の大雪山系品田山を発し、台北市の西側を流れ淡水で台湾海峡へと流れ入る。全長は百六十キロ、台湾三番目の大河である。しかし地図上で淡水河とあるのは台北市の南西萬華(バンカ)区から河口の淡水までのわずか二十三・七キロに過ぎない。上流の大漢渓の百三十五キロが加えられているからである。
品田山から流れ出る大漢渓は、一旦は西に下るが、石門で北東へと方向を変え、台北・桃園平野へと流れ出て、台北市の南西で淡水河に流れ込む。上流の石門には現在ダムが建設されて昔の面影はないが、以前は石門渓谷と呼ばれ森林資源が豊富な地帯であった。
淡水河にはもうひとつ源流がある。新店渓である。この河は台北県の南部、双渓郷に水源を持つ。標高は七百米で、全長は八十一キロと大漢渓よりは短い。この河は台北市に向かって北上してくる。河は山間部を流れて、たびたび蛇行をする河である。特に台北南郊の新店では、深いS字形に蛇行した後、台北市の南西部で更に蛇行してから淡水河に流入する。
ふたつの河が合流する辺りに台北市の萬華区がある。この辺りは台北市が、そこだけは南西に凸出した地域である。萬華は台北市の発祥の地でもある。十八世紀の初め、向いの福建省泉州から移住して来た人々によって拓かれた町である。当初は蕃薯市と呼ばれていたが、その後艋舺(バンカ)となった。バンカとは、漢化した原住民ケタガラン族の丸木舟を指す「ヴァンカア」から来た言葉である。この辺りでケタガラン族の丸木舟をよく見かけたことによる。それに艋舺と言う当て字が使われた。艋舺は大漢渓の木材を集める木場として発展した。そして日本が植民地にする前までに艋舺は「一府、二鹿、三艋」と(呼ばれるようになった。
一府とは、清朝の政庁が置かれていた台南の安平府。二鹿は、天然の良港である彰化の鹿港。そして三艋とは艋舺(バンカ)のことである。日本の占領時代、「バンカ」が日本語の万華の音に似ているとして万華と書かれるようになった。そして光復(日本の台湾返還)後は、今の萬華が使われるようになったのである。
萬華は台北市の発祥の地だけに古い物も多く残されている。中でも台北市の古刹龍山寺は派手な装飾で日本人観光客にも人気がある。このお寺の観音様は現世利益の神様として台湾人に人気があり一日中線香の煙が絶えることはない。
萬華は台北市の発祥の地だけに古い物も多く残されている。中でも台北市の古刹龍山寺は派手な装飾で日本人観光客にも人気がある。このお寺の観音様は現世利益の神様として台湾人に人気があり一日中線香の煙が絶えることはない。
***
私の記憶はミシンを踏む母の姿から始まる。幼稚園から戻ると私は母の仕事場に向かった。小さな庭に面した四畳半の部屋で母はミシンを踏んでいた。
私の記憶はミシンを踏む母の姿から始まる。幼稚園から戻ると私は母の仕事場に向かった。小さな庭に面した四畳半の部屋で母はミシンを踏んでいた。
母の手が動くと、ミシンンの向こうに、布地は魔法のように吸いこまれて行く。光沢がある裏地は午後の光を小川のように反射した。
「ただいま」
「おかえり」
返事はするが、母は振り返えりもせず、手も止めない。布地を見て、まだしばらく仕事が続くと思った私は、ミシンの傍の机の方にそーと移動しようとした。
「生地を踏まないでね」と、母が注意した。
「おかえり」
返事はするが、母は振り返えりもせず、手も止めない。布地を見て、まだしばらく仕事が続くと思った私は、ミシンの傍の机の方にそーと移動しようとした。
「生地を踏まないでね」と、母が注意した。
机には服飾雑誌が積んである。まだ字が読めない私だったが、洋裁の本は好きだった。女の人が服を着ているだけの本だが色刷りの絵が楽しかったのである。既製服という物がなかった時代、女性たちは服飾雑誌を見て気に入った服を自分で作るか洋服屋に作ってもらった。洋裁が得意であった母は服屋に頼まれてそのような服を作っていたのである。
「こんにちはー」
玄関で大きな声がする。
「ハーイ」
手を止めて母は玄関に向かった。
「彩子(あきこ)さん、孝志さん居る」
能富さんの奥さんだ。近所に住む警察署長の奥さんで、親戚でもないのに、台湾から引き揚げてきた母の面倒を良く見てくれた。
「あいにく出かけているのだけれど」
母は申し訳なさそうに言った。
「また喫茶店。お金も無いのに、よく行くわね!」
と、能富さんの声がきつい。
「そうなのよ、本当にそうなのよ。先日も工事屋さんから、手伝いを頼まれたのに、今は忙しいからと断わったのよ。そして、俺は弱電だから重電は分からん、と。本当に少しでも働いてくれたら」
母は何時もの愚痴を言う。
「ちょっとラジオの調子がおかしいのよ。主人が孝志さんに来てもらえと言うのよ。ラジオが治れば、ビールでも一緒に飲もうと思っているのよ。孝志さんどうせお金は受け取らないでしょうから、その分は彩子さんに払うからね。ちっとでも助けになれば」
と、能富さんはすこし秘密っぽく言ったのである。
「本当に、ありがとう」
と、母は言い。「よしゆき」と私を呼んだ。
「善行。お父さんを呼んでおいで、きっと松原喫茶店に居るはずだから、すぐに能富さんの家に行くように、と言っておいで」
と、私に命じた。
と、私に命じた。
縁側に回って下駄をつっかけると、私は鍋島城の近くにある松原喫茶店へと向かった。夕闇が迫っており嫌いな雰囲気だった。やっと店に着いて重いドアを押して入ると、荘厳なメロディが流れていた、父の好きなバッハだろうか。喫茶店の片隅に人差し指を指揮棒のように振っている目をつぶった父が見えた。他の客も静に音楽を聞いている。
「お父さん」
と、ちいさく耳元で呼ぶと、父は目を開いた。
「オ、善行か、どうした」
「能富さんがラジオを直して欲しいと言っているから、すぐに行くようにとママが言っているよ」
と、私は言われた通りに伝えた。
父は少し顔を曇らせたが、
「よし分った、今行くよ」
と、残ったコーヒー飲んでから立ち上がった。
「そうだ、善行アイスクリームを食べて行くか」
私は一瞬うなずこうとした。だが、もう夕闇はそこまでせまっている。お城の中はもう暗いだろう。暗くなれば、猫が起きて来るかも知れない。『佐賀の猫化け騒動』の猫塚がお城の中にある。喫茶店から家まで、今ならまだ明るい内に帰れるだろうが、アイスクリームを食べてから帰るなら、お堀の傍を通る頃にはもう日が暮れている。石垣の向こうには猫塚がある。子供が言うことを聞かない時には、化け猫が出ると散々聞かされていた私は「お母さんが、すぐに帰ってこいと言っていたから」と、断った。父は食べ終わるまでは待ってくれそうにもなかったからである。
***
母は台湾人だった。母方の実家は台北の萬華にある。台湾人と言っても、戦前の台湾は日本の領土だったから、父と結婚した時は日本人同士の結婚であった。まさか日本が戦争に負けて、台湾が中国領になるとは誰も思っていない時代であった。
母は台湾人だった。母方の実家は台北の萬華にある。台湾人と言っても、戦前の台湾は日本の領土だったから、父と結婚した時は日本人同士の結婚であった。まさか日本が戦争に負けて、台湾が中国領になるとは誰も思っていない時代であった。
父と母の結婚のいきさつは変わっている。母を見染めた友人の交際の申しこみに付き添って、父は初めて母の家に来た。その時の父は着崩れした浴衣に、底のすり減った下駄をつっかけており、このだらしない男が、あの大紡績会社の御曹司かと母は驚いたと言う。この友人の話は不出来に終わり、その後で、父は母に結婚を申し込んだのだった。
「僕と結婚すれば、日本に行ける」母はこの言葉に心が動いた。当時台湾人にとって本土は憧れの地であった。台湾も日本領土とは言え、そう簡単には行けなかった。結局、母はこの誘惑に勝てずに結婚を承諾したのである。
終戦後、母は台湾に残ることも出来たが、一家と共に佐賀に引き揚げてきた。親戚一同は、物資が豊かで生活の基盤がある台湾に残れと薦めたが、一家と行動を共にしたのである。結婚をすれば憧れの日本に行けると言う父の甘い誘惑に乗って結婚したが、まさか全財産を没収された家族と一緒に日本に来るとは思いもよらなかっただろう。
父方は、祖父の代までは佐賀で米穀商を営んでいた。
祖父は度胸があり米の卸業の他に先物取引にも手を染めた。その年が不作だと当たりをつけるとまず青田を買って現物を押さえ、更に先物を買いつけた。長年の経験から祖父の勘が外れる事はあまりなかった。不作と分かれば、先物売りをした相場師が現物の手当てに走ることになる。うろたえた相場師が契約をした百姓を買収したり稲を不法に刈り取ったりするのを防ぐために祖父は店の若い者に日本刀を持たせて、刈り入れが終わるまで昼夜農道に立たせて見張らせた。
子供の頃父は家の箪笥の中に着物ではなく日本刀がずらりと収まっているのを見て驚いた。こうして稼いだ金を元手に祖父は台湾で紡績業を始めた。祖父はそこでも成功して事業を拡大して行った。終戦前には七つの工場を持つまでに至ったのである。光復後設立された国営台湾紡績公司はこの祖父の工場が基礎になっている。
祖父と共に台湾に渡った父は、徴兵されて一時は潜水艦の通信兵として兵務についたが、胸部疾患で肋骨を三本抜くと海軍を退役した。太平洋戦争が始まっても召集されなかったので、軍隊勤務は無理な体だったのだろう。それからは好きな音楽や絵画などの芸術を楽しむ生活を続けていた。
***
一九五四年の夏、台風が九州の近くまでやって来た。台風はそこで熱帯低気圧と変わったが、佐賀に豪雨をもたらした。床下まで水が溢れ、我が家でも夜中に大騒ぎで畳を上げる始末だった。
一九五四年の夏、台風が九州の近くまでやって来た。台風はそこで熱帯低気圧と変わったが、佐賀に豪雨をもたらした。床下まで水が溢れ、我が家でも夜中に大騒ぎで畳を上げる始末だった。
台風が過ぎると、快晴の下、一家は前日湿気を吸った畳を庭に出して天日で干した。まだたいした手伝いが出来ない私は、畳がはがされた後の床に敷かれていた古新聞をはがす手伝いをした。古新聞は隙間なく何枚も重ねて敷かれておりその上には白い粉が厚くまかれていた。私はその粉を寄せながら新聞紙を一枚一枚はがして行った。粉は集められ捨てられた。それはDDTと言う強い毒性を持つ殺虫剤である。その時、誰かが走って来て、「近くの河で子供が流されている」と、叫んだ。「鏡子ちゃんらしい」と、言うのである。
妹の鏡子は、さっきまでそこで遊んでいたはずである。家族全員が手分けして探したが、どこにも居なかった。家族は慌てて河へと走った。河は普段なら幅二メートルほどであるが、その日は傾斜した土手の上近くまでも水が溢れ向こう岸が遠くに見えた。
向こう岸の近くを小さなこどもが流されて行く。ぷかりと浮いてまとわりついた浴衣が鏡子の物と似ていた。向こう岸では大人たちが盛んに竹竿でたぐり寄せようとするが、流れが速く水の力が強いので、浴衣に竿が絡んでもすぐに外れた。こちら側に近づいて来て、やっと岸辺にたぐりよせることが出来たのである。
鏡子だった。母は半狂乱である。なんとかして鏡子を起こそうとして、ほほを叩いたり腹を押さえたりして水を吐かせようとした。しかし反応はなかった。医者が駆け寄り手当てをしようとしたが、もう手遅れだった。誰かが持ってきた毛布を敷いた。鏡子はその上に寝かされ胸まで毛布がかけられた。私が鏡子の顔を覗くと、鏡子の顔は白磁のように白く血の気はまったくなかった。だがまるで熟睡しているかのように穏やかな表情だった。
後で聞いた事だが、鏡子のちいさなポックリが上流の土手にきちんと揃えられていたと言う。水遊びをするために自分で入ったのだろうと言う人がいた。
「台風の後で、水かさが増していることが、幼い鏡子ちゃんには分からなかったのだろう、誰かがついておればこのような事はなかっただろうに」
一番すなおで、手間がかからない良い子だったのに、だから早く死んでしまったのだと、母は嘆いた。
それから半年ほどが過ぎたある日、母は親戚が多く生活の援助が期待できる、台湾に戻る決心をした。日本に渡ってから八年の年月を頑張って来たが、もう鏡子の事で母は精も魂も尽き果てたのであった。
***
一九五五年の五月、福岡の板付空港にはさわやかな風が吹いていた。
私たち一家は、能富さんが手配してくれ%た車とパトカーに分乗して空港に着いた。
「向こうで落ち着いたら手紙を頂戴」
「エエ、すぐに出します。本当に能富さんありがとう、お世話になりました」
母は涙ぐんでいる。能富さんの奥さんの目も赤い。
「ダグラス・スカイマスターだな」
と、能富さんのおじさんは滑走路に止まっている飛行機を見て言った。
「四発だからそうだね」
と、父が返事をする。
板付空港には白銀色に輝く、四発のプロペラをつけた大きな機体があった。
「では皆さんあちらに行かれたら、お元気でお暮らして下さい」
「能富さんもお元気で」
「また会いましょう」
おばさんと母は手を握り、何時までも離そうとはしなかった。
「搭乗を開始します、皆様手荷物を持って搭乗をして下さい」
と、飛行場の拡声器からの放送があってから、能富さんのおばさんと母は、やっと手を解いた、それでも動こうとはしなかった。
「さあ、乗ってもらいなさい」
と、おじさんが言った。そして父と握手をした。
「まあ、台湾も最近は落ち着いているから安心でしょう。でも何かあればすぐに戻って来てください」
と、言って、おじさんは、私たち子供たちの頭を、ひとりひとりなでてくれた。
やっとおばさんと母のお別れが終わり、私達は手荷物を持って飛行機に向かったのである。
一九五五年の五月、福岡の板付空港にはさわやかな風が吹いていた。
私たち一家は、能富さんが手配してくれ%た車とパトカーに分乗して空港に着いた。
「向こうで落ち着いたら手紙を頂戴」
「エエ、すぐに出します。本当に能富さんありがとう、お世話になりました」
母は涙ぐんでいる。能富さんの奥さんの目も赤い。
「ダグラス・スカイマスターだな」
と、能富さんのおじさんは滑走路に止まっている飛行機を見て言った。
「四発だからそうだね」
と、父が返事をする。
板付空港には白銀色に輝く、四発のプロペラをつけた大きな機体があった。
「では皆さんあちらに行かれたら、お元気でお暮らして下さい」
「能富さんもお元気で」
「また会いましょう」
おばさんと母は手を握り、何時までも離そうとはしなかった。
「搭乗を開始します、皆様手荷物を持って搭乗をして下さい」
と、飛行場の拡声器からの放送があってから、能富さんのおばさんと母は、やっと手を解いた、それでも動こうとはしなかった。
「さあ、乗ってもらいなさい」
と、おじさんが言った。そして父と握手をした。
「まあ、台湾も最近は落ち着いているから安心でしょう。でも何かあればすぐに戻って来てください」
と、言って、おじさんは、私たち子供たちの頭を、ひとりひとりなでてくれた。
やっとおばさんと母のお別れが終わり、私達は手荷物を持って飛行機に向かったのである。
入ってみると機体は思ったよりもせまい。大人の頭が天井につきそうである。座席は通路を挟んで、両側にふたつずつ、私達六人は右側の三列に座らされた。父と母、兄と上の姉、そして私は下の姉と並んで座った。座席に座ると、乗務員が安全ベルトのつけ方と落下傘の装着方法を説明してくれた。
夕闇が迫っていた。外の景色がだんだんとかすんで行く、ブルブルとプロペラの回転音が高まった、ものすごい振動である。そして飛行機は滑走路を震えながら、次第に速度を増して行ったのだった。大分興奮している母の声は二列後ろに居る私の席からも聞こえた。滑走路を走り終わる頃、飛行機はゆっくりと舞い上り、暗くなり始めた外のは明かりは見えなかった。ただ上下動する揺れが、自分が空中にいることを感じさせるのである。水平飛行をするようになっても揺れは止まなかった。
しばらくすると、前列に座っていた兄が気持ちが悪いと言い出した。父母が備え付けの吐き袋使えと言う。私もすこし吐き気を感じたが、兄ほどではなかった。隣に座っている次姉は眠っているのか、目をつぶって何も言わなかった。飛行機は何時までも揺れ続けた。しかも揺れが段々とひどくなって行った。そしてついに乗客全員が飛行機酔いになってしまったのである。私も袋に吐いたが、吐いても吐いても気持ちの悪さは収まらない。もう胃液だけになった。特に兄は苦しそうである。そして機内全体に嘔吐のにおいが満ち、飛行機に乗れるとはしゃいだことを私は後悔した。
やっとの思いで給油地の那覇に着くと、人々は競って機外へと出た。外に出ると南国特有なねっとりとした空気が漂っている。沖縄の空気だ。その中に強い花の匂いが混じっている。私たちは救われたように深呼吸をした。 待合室に入ると、気流が悪いからもう飛行機は飛ばないと放送があった。明日の朝に出発するから今日は休憩室で休めと言う。母は残念がったが、私たちはほっとした。あの揺れをすぐに再体験するのがすこし辛かったのである。
那覇空港の待合室は蒲鉾兵舎のような簡易な物で、中には木製のベンチがずらりと並んでいた。乗客はここで夜を過ごすことになった。エアコンが入っているのか、中は涼しかった。天井から吊り下げられた大きなランプの周りを、コガネムシや蛾がにぎやかに飛び回っている。時折ランプにぶつかる蛾の鱗粉が散ってキラキラと輝いた。
しばらくすると米兵達が毛布と冷えたバヤリースのオレンジ・ジュースを運んできた。ジュースは勝手に飲んで良いと言う。私たちはジュースを持って休憩所の外へと出た。飛行機酔いが大分治った兄も一緒である。外では満天の星が空を埋め尽くし、手を伸ばせば届きそうである。
「あれが蠍座だ。これからは星が良く見えるぞ、台湾についたら南十字星も見えるぞ」
と、父が言った。
父が指さす方向にサソリの形の大きな星座が輝いていた。
翌朝の天候は申し分なく、一時間ほどで台北市の北東にある松山空港に到着した。前日に比べるとあっけないほどの楽な飛行である。だがタラップから出ると、沖縄以上に激しい太陽の洗礼を受けたのだった。
通関の場所は大きな教室のような部屋だった。荷物を置く平たい台が三列あり、いかめしい顔をした係官がそこに立っていた。荷物はまだ来ておらず、荷物の受取場も税関員が四五人まわりをぶらぶらとしていたのである。
税関員に近寄り、母が何かを言った。するとその税関員は荷物受取場にいた若い係官を呼んで、誰かを呼びに行かせたのである。若い係官が中年の男を連れて戻ってきた。税関とは違う軍服のような服を着たその男の服には、徽章も肩章も何もついていない。
母を通関場の端に連れて行くと、何かを耳打ちしていた。母はうなずきながら彼に愛想笑いをする。荷物がどんどんと運ばれて来る。しかし母は動こうとしない。父と私たちは離れた所に立って母の戻りを待った。荷物が出てきた人たちが、順番に通関のカウンターに並び始めた。
だが母は彼の傍に立ったままである。
那覇から台北まで来た人は私たち家族を除くと十人も居なかった。アメリカ人の軍人も数人同乗していたが、通関場には見えなかった。
最初に並んだ人の荷物が開けられ、小さい物までいちいち調べられ税金を払わせるために分けられていた。通関には大分時間がかかりそうである。何とか課税を逃れようとしているのか、税関に頭をペコペコ下げている者もいた。
どうやら全ての荷物が通関場に運び込まれたようである。すると母と立っていた男性が、母から荷物札を受けとり、若い税関員を呼んでそれを渡した。税関員が荷札を運搬係に渡すと運搬係が荷物をよりだして手押し車に載せたのである。父に荷物を確認させると、母はその人に何かお礼の言葉のようなものを言った。その人は笑みを浮かべながら出口の方を指差した。我々は通関カウンターを通らずに外に出た。
どうやら全ての荷物が通関場に運び込まれたようである。すると母と立っていた男性が、母から荷物札を受けとり、若い税関員を呼んでそれを渡した。税関員が荷札を運搬係に渡すと運搬係が荷物をよりだして手押し車に載せたのである。父に荷物を確認させると、母はその人に何かお礼の言葉のようなものを言った。その人は笑みを浮かべながら出口の方を指差した。我々は通関カウンターを通らずに外に出た。
「さっきのは誰だ」
と、父が母に聞いた。
「警備総司令部の人よ。来る前に頼んでおいたから」
と、小さな声で母が言った。
三台の手押し車を父と母と兄が押して税関を出た。姉たちが手荷物を持った。
「ヨアー」
と、母の幼名を呼ぶ大きな声が聞こえた。
「リンコウジュよ。ほらあそこに、林公樹がいる」
母は嬉しそうに林公樹の方を指さした。
出迎えの人たちが待つ到着場に、丸々と肥りお腹を突き出した男の人が手を振っていた。父もすぐに気がついて手を振り返した。
「孝志さん、ひさしぶり」
満面に笑みを浮かべて、林公樹は私たちに近寄り流暢な日本語で迎えてくれた。
「秀樹、久仁子、林公樹さんよ、覚えている」
と、母は子供達を前に出した。
兄はすぐに頷いたが、上の姉はしばらく考えてから、やっと思い出したようである。
「大きくなったなあ」
林公樹は二人の手を取って交互に顔を見た。
母は、日本で生まれた和子と私を紹介した。
「和ちゃん、憶えているかい、ほら台湾で、お前のお母さんのお腹に和子ちゃんがいる時、伯父さんは会ったことがあるんだよ」
と、林公樹は笑いながら、和子の頭をなでた。私は今まで、こんなに陽気な人に会った事はなかった。
母方の曽祖父には、三人の娘がいる。祖母が次女で、林公樹の母である大叔母が三女である。林公樹と母とは同い年のいとこ同士で、母は数カ月早く生まれた。
母には祖母も兄弟も居たから本来ならそちらに頼るべきだっただろうが、母は大叔母の方を頼った。だから林公樹が出迎えに来ていたのである。
一九四七年一月、母が日本に渡る時、母の兄の伯父は、「日本について辛かったら、何でも言っておいで、相談に乗るから」と、言って母を送り出した。
だが日本に引き揚げて間もなく、台湾では国民党の暴虐に対して台湾の人々が立ち上がった「二・二八事件」が起きた。
当時、中国大陸で共産党との戦争に忙しかった蒋介石は、台湾の接収を配下の福建省の軍閥に任せた。この軍閥は腐敗と無能で有名だった。彼の兵隊は台湾に到着すると、日本人の資産だと言って、片っぱしから財産を没収して行った。それだけなら良かったが、無知無学な兵隊は、至る所で台湾人との摩擦を引き起こしたのである。
ある日兵隊が金物屋にやって来て、水道の蛇口を一つ買って行った。そして翌日戻って来て、金物屋の主人に対して、ペテン師だから主人を殺すと言うのである。聞くと、他の家では壁についている蛇口から水が出るが、買った蛇口は壁にとりつけていくらひねっても水が出ないと言うのである。だからお前はペテン師だから殺すと言うのであった。この金物屋は命の引き換えにと大金をその兵隊に渡すと、その夜の内に夜逃げしてしまったのだった。このような事が日常的に発生した。
「犬が去って豚が来た」
と台湾人は言う。
日本人は犬のようにワンワンと鳴いて煩かったが、まだしも泥棒が居ない社会を作った。ところが今度来たのは豚だった。豚は貪欲で何でも欲しがる上に、泥棒までもすると言うのである。
一九四七年の二月、闇タバコを売っていた老女に対する過剰な取締りをきっかけに、台湾人の不満が一挙に爆発した。そして騒ぎはあっと言う間に全島へと広がった。この騒ぎを鎮圧するために、軍閥は軍隊を動員し、町中に機関銃を設置して無差別銃撃をはじめのだった。
暴動の背後には、共産党のスパイの扇動があるとして、日本の教育を受けた多くの知識人を次々に逮捕し拷問にかけた。そして裁判もせずに殺して行ったのだった。その結果大虐殺事件へと拡大し、死者・行方不明者の数は二万八千人に上った。
伯父はこの事件にまきこまれた。当時伯父は中央魚市場の理事をしており魚市場の様子を見ようとして出かけた。そして国民党の機関銃による無差別掃射に巻き込まれて殺されたのである。数日後、伯父が亡くなった事を、台湾からの電話で母は知らされた。
翌月、伯父の妻も前置胎盤で男の子を死産して自分も亡くなると言う不幸が重なった。そして残されたのは七人の娘たちであった。伯父が死ぬと弟の叔父が跡を継いで中央魚市場の課長になったが、その後叔父は蒋経国が提唱する「台湾人の若手による政治改革運動」に誘われて国民党に参加した。兄を殺した国民党に入党したことに腹を立てて、母は叔父と義絶したのである。
***
松山空港を出ると三輪車の車列がずらりと並んでいた。自転車の後ろに二人乗りの客席がついた乗り物で、当時はまだタクシーはなく、庶民が使える交通手段は公共機関以外では三輪車しかなかった。
「一、二、三、四、五、六人と私で合計八人。そして荷物…」
と、林公樹は大声で人数を数えてから、三輪車の列に向かって五本の指を大きく突き出した。五台である。
三輪車の漕ぎ手は、ほとんどが大陸から来た中年の退役兵である。阿兵哥(ア・ピン・コー)と、台湾の人にやや蔑すまれて呼ばれる彼らは、真っ黒に日焼けして筋骨逞しかった。だが、台湾語が話せず他にする仕事もなかったので、彼らはこのきつい仕事についていた。三輪車こぎは炎天下太陽にさらされながらひたすらペダルを踏む。雨が降ると厚いゴムの合羽を着るから、蒸れて更に重労働になる。
彼らの多くは寡黙であった。大陸に妻や子供を残して来た人も多く、更に政府が台湾人との軋轢を避けるために、台湾女性との接触を阻んでいたので、独身でも家庭を持つこともままならず孤独であった。
私たちは三輪車夫に手伝ってもらいながら、荷物を載せた。大きな柳行李が二つとそれに皮のトランクひとつあった。一台の三輪車は荷物専用となった。荷物を積み終わると私たちは三輪車に乗り込んだ。足元には荷物を置いた。
空港から大叔母の家がある萬華までは、市を北東から南西へと斜めに横切らなければならない。小一時間は掛かる距離であった。
五台の車列はゆっくりと進んだ。道の両側には大王椰子が植えられおり、青空に映えてとてもすがすがしい。時々道が盛り上がっていると、車夫は中腰になってペダルを踏んだ。それでも駄目な場合は降りて押した。
「あ、あそこにザボンがある」
と、母が叫んだ。
「林公樹。林公樹。あそこに叔母さんが好きなザボンがあるから、買って行こう」
と、前の三輪車に声を掛ける。
林公樹はフーフー言いながら三輪車から降りて来ると、母と共に果物売りの屋台へと向かった。
二人はなかなか戻って来なかった。どうやら値段の交渉をしているらしい。そして大分経ってから、大人の頭ほどのザボンを二個ずつ抱えて二人は戻って来た。母がひとつ持つかと言うので私は喜んで受け取ったのだが、それがだんだんと重くなって、持てると言ったことを後悔したのである。
萬華の大通り康定路にある大叔母の家は三階建ての石造りの家である。一階は商店として貸しており、住居部分は二階と三階である。大叔母は二階の応接間で待っていた。母が入ると二人は抱き合い涙を流しながら何かを話していた。しばらくすると、祖母が隣の家からよちよちと歩いて来た。大叔母と叔父の家は中庭が共用になっており、各階は廊下でつながっており外に出なくても行き来ができた。
背が低い小太りで丸顔の祖母は母とは似ていなかった。母はどちらかと言うと細面の大叔母に似ている。だが私は祖母の方により親しみを感じたのである。応接間には大きな祭壇があり観音様が祭られていた。龍山寺の観音様から分霊された観音様である。落ち着くと大叔母は長さ二尺ほどもあろうと思われる線香を十本ほど取りだし、火をつけて母に渡した。そして仏様と観音様、ご先祖様に、一家が無事に台湾に戻って来られた事を感謝させたのである。そうして私たちは大叔母の家にひとまず身を寄せたのであった。
大叔母の家に身を寄せたのは良いが、当座の生活費をどうするかが母の心配事であった。父は仕事を探すとは言っているが、当てはなかったのである。母は大叔母に相談をした。当時台湾と日本の間は物品の往来が制限されており、特に生活用品や贅沢品の輸入は厳しく禁止されていた。その結果、戦前にあった日本の製品の輸入がほとんど止まっていた。
日本の品物は台湾人の憧れであった。日本の品物は伝手でもなければ手に入らず、例え伝手があったとしても僅かな物しか頼めなかったのである。当時委託行と呼ばれる欧米や日本の商品を客から預かり転売する商店があった。この稼業は商品さえ集まれば多大な利益を上げることが出来たのだった。親戚や近所からも売る物はないかと大叔母のところに打診があった。そこで大叔母は持って来た荷物を売れと母に勧めたのである。しかしこれからの長い期間台湾で過ごすことを考えると母は決心がなかなかつかなかった。だが他に生活費が入る見込みがないと分かると母は売ることにした。
当日品物が大叔母の応接間に持ち込まれた。将来子供が大きくなった時のためにと買っておいた布地や、台湾では手に入らないお菓子類まで、すべてがゴザを敷いた床の上に広げられたのである。森永キャラメル、明治チョコレート、資生堂の化粧品から、正露丸。お洒落な母が自分や娘のためにと選んだ服や小物までもが全て広げられたのである。
人々が続々と集まってきた。そして品物を見たとたん興奮状態になった。てんでに服を自分の体に当ててみたり、布を長さを確かめてから、何が縫えるのかと母に聞いたりした。特に新しい化粧品はめずらしく、母は自分の手の甲に塗って匂いを嗅がせたり、効能を説明したりもした。
母の友達の愛敬さんは、買い物に来たのにいそがしい母を見ると、自分も手伝って説明役を買ってでた。
市場から林公樹が戻って来て応接間を覗いた。
森永のキャラメルを見つけると、箱を開けてひと粒口に入れた。
「懐かしい!」
と、言って残りをみんなに配った。
母は、売る以上にひさしぶりに会う親戚や友人たちとのお喋りにいそがしかった。来た人達は自分の欲しい物を選ぶと大叔母と値段を交渉した。大叔母はひとりひとりが選んだ品物のリストを作り、交渉で決まった金額を記入して品物を渡した。
伯父の孤児たちも上の三人がやって来た。母は姪たちにそれぞれの好きな物を選ばせて、来なかった下の四人の娘達の物も選んであげた。
数日後、母と大叔母の部屋に行くと、大叔母と祖母が居た。大叔母が金庫から風呂敷包みを取り出して母に渡した。先日の品物の代金である。母はその金額に驚いていた。当時の一番大きなお札、新台湾ドルの十ドル札で二、三束はあっただろうか。屋台のソバが五十銭位だった当時、十ドルなら一万円に近い価値である。それが三束もあるのだから、今の日本円にして三百万円ほどの価値が有ったと思われる。母が計算すると買値の九倍ほどの値段で売れていたことになった。
大叔母の手伝いに感謝し、母は、お礼だと言って幾らかを渡し、また幾らかを祖母に姪たちの養育費として渡した。そして自分も当座の生活費として少しとると、残りをまた大叔母に預けたのである。それは今後日本に戻る時に使う闇の米ドルに変えてもらうためであった。闇の米ドルは、公式レートの三倍もしたが、品物が九倍にも売れるなら問題はなかった。しかも当時日本でも闇の米ドルを買う人たちが居たから、買い入れた時のレートではないが、それなりの高いレートで円に交換できたのである。こうして生活費の目途が立つと、一家はやっと落ち着くことができたのである。
祖母は隣の住居部分ではなく中庭の廊下に面した台所部分を改造して住んでいた。叔父の家には叔父の一家五人の他に伯父が残した七人の孤児たちも住んで居り手狭であった。しかも孤児たちの養育費を得るために、三階部分の半分を人に貸していたのでよけいに窮屈だった、そこで祖母や廊下に面した台所に住むことにしたのである。
台所であった祖母の部屋は、二畳ほどの広さしかなかった。室内には煉瓦のカマドや石の洗い場が残っており、それを利用して、ベッドが作られていた。ベッドの片方をカマドに載せて、反対側には角材で組んだ台を作りベッドを支えていた。ベッドと言っても合板の板一枚である。煎餅蒲団が敷かれたベッドの高さは一メートルを越えている。背が低く足腰が弱っている祖母二段の脚立を置いてベッドに上り下りしていたが、それは大変な苦労であった。
ベッドの向かいには簡単な棚が組まれており、下が衣類入れで上は平らな台になっていた。そこに幾つもの大きなガラス瓶が並べておりその中には飴玉やスパイスの効いた干した果物が入っていた。それは大叔母の孫や近所の子供たちに売って、孤児たちの養育費の足しにする為であった。
祖母は大叔母とは違って日本語の教育を受けていない。だから私の言う事は分からないが、私のいう意味を察しては返事をした。ある日、祖母は靴を脱いでベッドの上で纏足の足を包んだ布を巻きなおしていた。私はその小さなお握りほどの足に興味が湧き、祖母の素足はどうなっているか見たいと言ったのだが、祖母は悲しそうに手を鼻の前で振って、臭いから見せないと言う。どうやら肉はつぶれ骨も変形しているらしい。纏足の習慣はなくなったのは日本の統治が始まってからである。大叔母は普通の大きな足をしていた。
***
台湾に来て暫く過ぎた時、次姉の和子と私が母から呼ばれた。朝ごはんのおかずを買いに行けと言うのである。昼と晩の食事は大叔母たちと一緒に食べていたが、中央魚市場で働く大叔父たちの朝は早く、朝食だけは私たち家族だけでとっていたのである。
お使い先は近くの公設市場であった。公設市場と言っても露地の中の低い天井のトタン屋根の建物で、日が差し込まぬ薄暗い場所にある。前日の雨でに出来た水溜りが幾つもあった。
私たちは言われた通りに、母と前に行ったことがある若い男の人がひとりで店番をしている漬物屋に入った。一坪ほどの小さな店である。向かって右には、瓜類や根菜類を醤油と砂糖で漬け込んだ甕が二十ばかり並んでいる。左には平たい台があり、その上で豆腐や揚げを売っていた。その他にもグルテンを加工した精進料理の食物が売られていた。
母から言われた通り、姉と私は、
「ツェ(これ)ベー(要る)ヌンカ(二十銭)」
「ツェ・ベ・サーカ(三十銭)」
と、品物を指しながら買い物をした。
「ツェ(これ)ベー(要る)ヌンカ(二十銭)」
「ツェ・ベ・サーカ(三十銭)」
と、品物を指しながら買い物をした。
お店の人は、言われた物を秤で計って、ハスの葉に載せて、粽(ちまき)のようにくるりと包んでから、細い芦の紐でくくってくれた。芦の紐は最後には輪のように丸められ手下げになったので買い物籠を持って行く必要はなかったのである。
私は自分が好きな白瓜を柔らかく漬け込んだ物を買った。姉は母に言われた通りに祖母の精進料理の品を買った。
店の人は私たちの話を聞いていた。
「日本人」
突然彼は日本語で話しかけて来たのである。
当時三十才を超えた台湾人なら、ほとんどの人が日本語が話せると言われていた。だが私たちに話しかけてくる人はあまりいなかった。政府が日本語を使うことを厳しく禁じており、違反するとなにをされるかは分からなかったので、喋れても話し掛けて来なかったのである。
彼は周りに人が居ないことを確かめてから小さな声で話しかけて来たのだった。
「そう」
「どこに住んでいる」
「康定路」
「幾つ」
「八歳」
姉が言った。
「六歳」
私が言う。
「また来てね」
と、彼が小さい声で話を打ち切った。
向こうに人影が見えた。
「さようなら」
と、二人が言うと、
「さようなら」
と、小声で答えて彼は店の奥へと引っ込んだのである。
「そう」
「どこに住んでいる」
「康定路」
「幾つ」
「八歳」
姉が言った。
「六歳」
私が言う。
「また来てね」
と、彼が小さい声で話を打ち切った。
向こうに人影が見えた。
「さようなら」
と、二人が言うと、
「さようなら」
と、小声で答えて彼は店の奥へと引っ込んだのである。
***
康定路の家に一か月ほど住んだ後、私たちは二百米ほど離れた長沙街の家に引っ越した。長沙街は台湾の政治の中心である総統府の真裏から、淡水河の水門まで延びる道である。私たちが住む河に近い方は下町であった。
康定路の家から長沙街に向かうと小さな半円形のロータリーがある。そこには龍山寺に並ぶと言われる台北三大寺廟のひとつ「清水巌祖師廟」がある。このお寺で祭られているのは黒い顔をした道教神で、「落鼻祖(らくびそ)」とも呼ばれている。災難が起こりそうになると鼻が落ちて警告してくれると言う変な神様である。
この「清水巌祖師廟」の向かいにコンパスの足のように二筋の道が出ている。左が貴陽街、右が長沙街である。この「祖師廟」から淡水河までの貴陽街と長沙街の間は昔は蕃薯市と呼ばれていた。この辺りが萬華の中でも一番古い街である。今でも「艋舺老街」とよばれている。
私たちが到着して間もなく、大叔母は私たち家族と林公樹のおめかけさん一家を住ませる為に、祖師廟から淡水河に百メートルほど入った所に二階建ての家を一軒購入した。二階部分は最初から住居になっていたので、林公樹一家はすぐに引越したのだが、一階部分は店舗スペースとして作られていたから、それを改造してから私たち一家は引っ越したのである。
移ってからしばらく経ったある日、林公樹が二階から降りてきて
「ヨアーの料理が食べたいな」
と、言った。
母は料理が得意である。以前台湾に居た頃は、お祭りや宴会で、度々腕を振るったのだった。それを林公樹が言うと、母は喜んで受けた。そして私たちは、林公樹と父母の共通の知人と、更に近所の人たちも招いて宴会を催すことになったのである。
一階の応接間にはまだ家具は入ってなかった。そこに、借りてきた大きな円卓を二つ並べた。二十人が来ても大丈夫だ。当日の昼過ぎ、林公樹が魚市場から、母が頼んだ大きな真鯛とモンゴイカを運ばせて来た。その他に母は、市場で鶏やアヒルと冬瓜などを買って来た。
夕方、三々五々と客が集まって来た。食事は六時からだったから来客が揃うまでにまだ一時間ほどある。林公樹が競争をしようと言いだした。台湾の宴会では料理が出てくる前にテーブルには干した西瓜の種が置いてある。それを、幾粒か口に入れて、口の中で歯と舌だけを使って割って中身を食べる速度を競うのである。食べ終わると皮だけをペッペッと掌に吐き出した。お互いに速さときちんと食べたことを確かめる遊びだが、見た目はあまりよろしくない。しかし来客の器用不器用が分かって面白かった。負けた方が罰としてビールを飲まされるのである。
私も大人の真似をして、ひと粒口に入れて、舌と歯で割ってみた。ところが手に持って食べることさえも難しいのでとても出来なかった。それを大人は五粒も十粒も口に入れてあっという間に種を割って食べるのである。
料理が出てくる頃にはビールで大分テンションが上がっていた。母が作った蒸した真鯛やモンゴ烏賊の刺身などが出てくると、今度は紅露酒と言う紹興酒のような酒を出して来て、ジャンケンのような数当てをした。二人が同時に両手の任意の指を出して合計の数を当てるのである。
「八(パ)」「十(ザッツ)」。
「十三(ザッサア)」「五(ゴ)」。
「二十(リーザッ)」「十二(ザッリー)」。
と、二人が同時に大声で叫ぶのであった。当てられなかった方は紅露酒を一口で呷った。その内、人数が増えて、四人が片手だけを出して数当てをした。四人が大声で全員の合計数を叫んだ。当たると外れた三人が酒を呷るのである。ただのばか騒ぎとしか思えなかった。しかし手に大きな蒸し鶏の腿を持つ私にとって、宴会は楽しいものであった。
母は夜外出をする時、よく私を一緒に連れて行った。父は大概外に出ていたし、兄姉たちは本を読んでいることが多く、私ひとりがする事がなかったからである。その日は夕食が終わると親友の愛敬の家につれて行った。愛敬は母の幼稚園からの友人で、生涯仲の良い友達だった。
私はマージャンに付き合わされるのが嫌だったが、愛敬さんの家ならお菓子がいくらでも自由に食べられるので我慢してついて行った。
大人は麻雀に夢中であった。することがない私は窓の外を眺めようとした。すると、
「窓のカーテンを開けてはいけない」
と、愛敬が叫んだのである。
愛敬の家の窓には、暑苦しい台湾に似合わない厚いベルベットのカーテンが掛っていた。
「そこは拷問があるから」
と誰かが、下手な日本語で言った。
「拷問」「拷問」って、と思った。
拷問の意味はなんとなく分かるような気がした。怖くなった私は窓から麻雀台の方へと引き返した。
マージャンは延々と続いた。もう夜の八時を過ぎていた。私は眠くて眠くてしかたがなかったので、母にぐずった。
「ソファで寝ていれば」
と、母が言った。
ソファは窓の傍にある。もうみながマージャンに夢中になり誰も私に関心を向けてくれなかった。
私はソファに座るふりをしながら、恐る恐るカーテンの隙間から向いの建物を覗いて見た。
壁に囲まれた重厚な石造りの建物だった。壁と建物の間は二メートルほどの空間がある。そこから地下室の窓が見えた。鉄格子が嵌った大きな窓の中は、明かりが煌煌と灯されており、部屋の中には粗末な木の机と椅子が置かれていた。そして陰の方で何かが動いている。棒のような物が振られているような影が見える。
突然手を捉まえられて、カーテンの隙間が閉じられた。
「開けてはだめ!見られたら捉まるから」
と、愛敬が私を叱った。当時東本願寺別院は憲兵隊本部として使われていた。
台湾語が少し話せるようになると、私は家の近所をひとりでまわるようになる。台湾の治安は当時は安定しており、子供がひとりで出歩いてもあまり危険はなかった。道路にはトラック代りの牛車か、自転車、三輪車くらいしか動いている物はない。牛車を曳く牛は大概は黄牛と呼ばれる黄色い牛で、時々灰色の水牛が曳く牛車にも出会うことがあったが、水牛は気性が荒く、荷物運びには向いていないと言われていた。牛たちは黙々と働く事を要求されていたのである。
牛車は四輪の頑丈な大八車で、一トンもの荷物が積めた。その重量を支える車輪はトラックの中古タイヤが使われていた。山ほどの煉瓦やセメント袋を積んだ牛車は、少しの坂道でも前に進めず、少し進んでも後戻りをする。そうなると御者の阿兵哥が、自分も消防ホースのような肩紐を肩にかけて牛と一緒に車を引いた。それでも駄目な場合、御者は傍を通る牛車に応援を頼んだ。降りてきた御者は車の後ろを押したが、それでも動かない場合には、自分の牛を引いて来て、二頭で車を曳かせるのである。
牛は飼葉桶から餌を食べながら歩いた。そしてぼたぼたと糞を落として行くのである。糞を落とすと御者がすぐにスコップを持って集めた。汚いからではない、糞も肥料として高く売れるのである。
長沙街を西の端まで歩けば淡水河に出会う。河の前には堤防がありところどころに水門が作られている。水門を抜けると少し土の川岸があり、その先には広い砂浜が広がっていた。川幅は広いところでは一キロもあり人が住めるほどの大きな中洲があったのだが、誰も住んではいなかった。水は汚染されておらず、泳げたし、広い砂浜にはヤドカリやカニがいくらでもいた。それらを捕まえて遊んでいれば、いつの間にか時間は過ぎ去って行くのである。
コンクリートの堤防は垂直に切り立っており、地形に合わせて高さは二メートルから五メートルと異なっていた。上部の厚さは六十センチほどもあり、その上を歩くことができた。堤防の一定区間には階段代わりの鉄のクサビが打ち込まれており、それでよじ登ることが出来た。上に登ると河沿いをどこまでも歩いて行けるのである。
私は堤防を登るのが大好きだった。高い所では少し怖かったが、堤防に腰かけて中洲で動くアヒルの大群や、向こう岸の農家の景色を眺めていると心が落ち着いた。夕方、河向うに夕陽が沈む時、柿色の空とゆらゆらと夕陽を映す淡水河のさざ波や、土壁の農家を見ていると、何とも言えぬ安らぎを感じるのである。特に風があると一日の暑さを忘れさせてくれるのだった。
私はひとりで遊べるようになると、淡水河のみならず、近所の街の隅々までも探検した。そして何時も鼻をたらし、それを両腕で拭いていたので、うす汚れた顔の上には洟の跡が大きく左右に伸びて豪傑のような髭の模様になっていた。それを見た近所の人が、
「オービンチョンクン(黒顔将軍)」
と、私を呼んだのである。私はそう呼ばれるのが嫌だった。
八月末のある日、
「善行は小学校に入るまで、あと半年はあるから、こっちの小学校に幼稚園代わりに入れるか」
と、父が言った。
兄姉たちは九月から日本人学校に転入することが決まっていた。
台湾では小学校は六歳で入学し、新学期は九月からである。そうして、私は台湾に来てから三か月が過ぎた時から、近所の龍山国民学校に通うようになったのである。もうその頃になると、私は台湾人の子供同様台湾語が流暢に話せたし、台湾人の子供も入学前は北京語が話せなかったので、入学時点での変わりはない。
しかし、自由に町中を走り回っていた「黒顔将軍」にとって、学校とは窮屈な場所である。学生服は、軍装に似たカーキ色のシャツに同色の半ズボン。バックルがついたグリーンのベルトに編み上げの靴は、正に軍国調で、引き締まっては見えるが、自由のない窮屈なものであった。
龍山国民学校入ると、担任は繆(ミヤオ)という若い女性の先生だった。彼女はすらりとしており、目鼻立ちもすっきりとしていたので、さすがに大陸から来た先生は違うなと思った。台湾の女性はおしなべてずんぐりとした体形であった。
繆先生は安徽省の出身である。台湾語はほとんど話さなかった。一方、入学したばかりの児童は大陸から来たほんの一握りを除くと、ほとんどが北京語に接するのが初めての台湾人の子供である。そこで先生は最初から、一切の説明を抜きに黒板に書いた文字を自分の発音通りに繰り返し練習をさせた。私は勘が良かったのだろうか、すぐに先生の音にも慣れてついて行けたが、数人の子供たちはどうしても先生の発音について行けなかった。そうすると先生の愛の鞭がとぶのである。
当時台湾では教室での体罰は公認されていた。入学時に親が、先生どうぞこの子を、ビシビシと叩いて仕込んで下さいとお願いするのが普通であった。繆先生は一メートルほどの藤の鞭でそれを実行した。
入学後の一カ月間、毎日が発音記号の勉強と発音練習の繰り返しである。そして当日にならった発音記号は家に帰ってノートに書き写さなければならない。ノートや鉛筆が買えない子もいたが、そんな子供には、先生は鉛筆を与えて、どんな紙でも良いから書いて来なさいと、必ず宿題を提出させたのである。
一ヶ月を過ぎると学習の成果を試すテストが始まった。先生が作るクラスのテストの他に、学年の実力テストが毎週あった。更に毎月、学校が作る先生をも含めて評価する総合テストがあった。このテストでは先生の実績も評価されるので先生も必死である。
二か月目から漢字を教えたが、教えられた翌日その漢字がテストされた。もし間違いがあったとすると罰として、間違い一つにつき鞭で手のひらを一回叩かれた。漢字は大体一日十個程度教わるから、数箇所を間違った子供は悲惨である。
先生は手加減をしない、だからビシッという音が教室に響くと全員が自分が打たれたかのように首を引っ込めた。その上打った回数をぶたれた生徒自身に数えさせた。もし数え間違えて前の数を言えば、もう一回そこから始まった。もし一回飛ばしてでも数えようものなら、それまで叩いた分も取り消して最初からやり直すのである。
あまりの痛さに生徒が手を引くと、容赦なく半ズボンから剥き出しの足を鞭で叩いた。足を庇おうとして手を出すと、その上にも鞭を振るった。これらは手を差し出させるためのものであり、罰の数としては入っていない。子供は慌てて手を出して残りの回数を、歯を食いしばって我慢するしかなかった。
五回以上たたかれると掌がはれあがり、皮が破れて血を出す子供もいる。だが先生は容赦しない。まる自分が大陸から追い出されたのが、この子たちにも責任があるように――そんなやわな気持ちだから大陸から追い出されるのよ!これからはあなた達にしっかりしてもらうからね!
「反攻(ファンコン・)大陸(ダールウ)!」
「反攻(ファンコン・)大陸(ダールウ)!」
と、心の中で叫びながら鞭を振りおろしたのだろうーー。
朝鮮戦争が終わり、大陸へ戻れる可能性がほとんどなくなると、国民党軍と一緒に渡って来たこれらの文民の心の中にやるせなさが満ちていた。軍人なら戦って負けた事実があって納得も出来ただろうが、知識人、特に自由主義を信じて教育や社会運動に身を投じてきた者たちにとって、自分たちの方が正しいことをしているのに、なぜなんだと、どうしても気持ちが収まらないのである。これらの人たちは反攻の望みを捨てる訳にはいかなかった。だがそれに対して、台湾人は冷やかだった。「反攻大陸など不可能なことさ、勝手にほざけ」と、言う態度がありありとみえていたのである。日本と八年戦って、台湾を解放し、自由を与えたのに、今では、まるでそれが余計な御世話だったとでも言わんばかりである。
二年生になると、台湾人の男性の先生に変わった。この先生はあまり子供を叩かなかったが、が生徒のえり好みをしたので私は嫌いだった。放課後よく家にやって来て「私が賢い子供である」とか「成績が良い」とか、何かと母におべっかを使っているのを聞いた。聞くと田舎の家が台風で壊れたので母から修理代を借りに来たのだと言う。
二年生も中頃になると、私はまっすぐ家には帰らずに龍山寺や近くの商店街に寄り道をするようになる。龍山寺の境内は少々薄気味悪かったが、他の子供が近づかないので、私にとっては格好の遊び場であった。しかし私にとって一番の楽しみは、自由気ままな街歩きである。佐賀と違って萬華の街は色々な店やお寺があって、それも通りの間に挟まっており驚きの発見があった。
ある日の午後、学校が終わると、学校から淡水河へ直接出てみようかと考えたのだった。その方向には一度も行ったことがない。母からはそちらには行ってはいけないと言われていた。確かにその方角は町並みもうら寂しく面白い物があるとは思えなかったのだが、しかし私の好奇心は少しずつ積重なって行ったのである。
もう行ったことのない場所は限られていた。それにもし行くとすれば淡水河の堤防を目指せば良い。堤防にはかならず突き当るから、家までは堤防の上を歩けば帰れると私は確信して行ってみることにしたのである。
その日学校を出たのは午後の四時頃で日暮れまでにはまだ少し時間があった。学校から淡水河の堤防までの距離はわずか数百メートルだろう。家から堤防までの距離とほぼ同じである、だから私は気楽であった。だが、学校から数分も歩かない内に大きな通りにぶつかった。その通りの向こうはつき当たりである。そこから道は、真っ直ぐ堤防の方には向かわずに、左右何れかの斜めに入る路地しかなかった。建物もこちら側の二階建ての煉瓦作りの家とはちがい、木造平屋の住宅がごちゃごちゃと建っていた。
躊躇はしたが、思いきって大通りを渡り右の路地へと入って行った。路幅は狭まく、路地は中で幾重にも曲がっている。先ほどまでは右に見えた影が、いつの間にか前に来て、そして左へと、何回も変わった。それでも大体の方向は掴んでいると思ったので歩き続けた。だが歩けども歩けども堤防には突き当らなかった。その内アスファルトの舗装もなくなり泥道になった。まわりからは住宅が消え、ベニヤの合板を張り合わせたような四角いバラックが集まっている場所に出たのである。バラックの前の道はでこぼこで、あちらこちらに水たまりがあった。私は引き返そうかと思ったが、もう大分歩いて来たのでもう少し歩けば堤防に突き当たるのではないかと思った。それに引き返しても、もう方角には自信が持てなかったのである。
ひしめき合うバラックの門はのこぎりで切りとられたようにささくれだっていた。ドアは無く、中はと覗くと薄暗く何も見えなかった。門の周りを薄い寝巻きを来た女性が数人立ったり、スツールに腰かけてたりしていた。タバコをふかす者や、アイスキャンディーを舐める者、それぞれが手持ち無沙汰そうである。誰もが私をジーと見つめていた。私は漠然とした恐怖を覚えた。
アイスキャンディーを持っている若い娘が、声をかけてきた。
「坊や、どこへ行くの」
「堤防へ」
「堤防はそっちではないよ」
「ではどこ」
「ここからは行けないよ」
「どうすれば行けるの」
私は段々と心細くなりながら聞き続けた。
時間は大分経っている。もう夕暮れが近づいていた。
「ハハハ!」
突然横にいた年配の女性が笑った。
「ここからはどこへも行けないよ、ここはどん詰まりだよ、私たちはどん詰まりに居るのさ」
すると、近くのバラックの女性たちも一斉に笑いだした。私はおののいた。
「おいで坊や、アイスキャンディーをあげるから」
と、最初に声を掛けた若い娘が、新しいアイスキャンディーを持って来て差し出した。
「あらら、お気に入り」
と、年配の女性が言った。
するとまたどっと笑い声は起きた。私はアイスキャンディーどころではなかった。慌てて身を引いた。
「いじめないでよ」
と、彼女は怒った。
彼女が立つドアの奥は、小さな部屋のようなに幾つに区切られており、中は真っ暗だったが、何かが隠れているような気がした。私は襲われるかのような不安を覚え慌てて来た道を引き返したのである。
「またおいでよ、坊や、もっと大きくなってからね」
「ハハハ」
「ハハハ」
「ワハハ!」
たくさんの笑い声が私をおっかけてきた。
必死になって私は今来た道を戻った。どのくらい走ったのだろうか、斜めの道に出た。見たことがない道である。しかし学校を出た時、私は太陽に向かって歩いたので、今度は自分の影が目の前にあるのを見て思い切って渡った。薄暮がせまり家々の明かりがすこしづつ灯り始めた。もう時間はあまりないことを感じたのだが、学校は一向に現れなかった。
また変な場所へと出た。先ほどまでは薄暗い中を歩いていたのに、急に明るくなったのである。道路の両側の商店街がネオンで飾られ、まるでおとぎの国のようである。街全体が同じ作りで、どの店先にもカウンターがあり、その上には棒のような物が載っている。更に奥に陳列されている商品はどれも小さく、中にはくるくると回る台に飾られている物もある。おそるおそる近づいて見ると、棒のような物はコルク銃である。そしてカウンターの向こう側の棚には、十センチほどの古代の官吏や宮女の姿をしたの赤や緑の泥人形が載せられていた。グルグルと回っているのは段々になった傘の様な回転台である。初めて見る光景であるが、射的場であることがすぐに分かった。街の両側全体が射的場である。まだ時間が早いせいか客はおらず、ネオンサインだけが明るく、この不思議な光景を生み出していたのである。
そう言えば、一度母と三輪車で龍山寺にお参りに行った時この景色を見たことがある。その時、「そちらから行ってはいけない」と、母が三輪車夫に命じていた。三輪車夫はすぐに道を変えて龍山寺に向かったのだが。そうだその道だ、貴陽街の青山宮に出る道である。青山宮は龍山寺・祖師廟に並ぶ萬華三寺であるが、中には恐ろしい顔をした地獄の使者の七爺・八爺が祭られており、台湾のお盆の時に町を高下駄を履いて練り歩くのを見て、唯一私が近づかない寺である。だがこの道を行けば家に帰れる。私は落ち着きを取り戻して、店の中を覗く余裕が出てきたのであった。
私が迷った場所は当時「宝島緑」と言って、主に阿兵哥を相手にする売春街があったところである。射的場の道は、今は華西街として、台北一の屋台街になっており、多くの観光客を集めている。
萬華三寺とは、龍山寺、祖師廟そして青山宮の三寺廟である。
龍山寺と残りの二つの寺廟は、丁度三角定規の位置関係にあり、三十度の角に龍山寺があり、青山宮は九十度の角、そして祖師廟は六十度の角の位置に当たる。この三寺を回っても歩く距離は一キロ程度である。古い萬華を楽しむにはもってこいのコースである。。
青山宮は福建省泉州市恵安県の土地神様と言われている。昔疫病が流行った時、住民は故郷の土地神様をこの地に移して大厄を避けようとした。淡水河から上陸し、奥へと運ぼうとした時、この辺りで神輿が担げないほど重くなり、お告げによるとここで良いと言われたのでお宮を建てたと言う。そしてお参りをした者たちは疫病になっても大事には至らなかったと言うのである。
青山宮のご本尊は青山王と呼ばれ、他に様々な由来もある。地獄の判官をも統括する神様であるから七爺・八爺達をしたがえているのである。
二年生をすこし残す頃になると、私は時々学校へは行かずにそのまま龍山寺やその周辺で遊ぶようになった。学校から通知があると、母は私をぶったが、それでも不登校は止まなかった。不登校を続ける私を、父はとうとう日本人学校へ転校させることにした。四月、龍山国民学校での二年生の学期を二ヶ月残して、私は日本人学校で二年生を最初からやりなおすことになったのである。日本人学校とはどんなものかと私はおおいに期待した。兄と姉たちは毎日自由な服装で学校に通っていたし、教科書も色刷りできれいだった。
私が入学した時、台北の日本人学校の生徒数は、小学生が十数人と中学生が三人の二十人たらずの小さなものであった。中学生は、校長の高坂先生が自宅で教えていたので、小学校は台湾大学の構内の一室を借りて全員がそこで学んでいた。
授業は太った中年の女性が一学年ごとに十分程度順番で教えるものであった。他の学年の生徒はその間は自習をした。
私はすぐに退屈を覚えた。教室には四年生の和子が居たが、姉は自習の時は何時も静かに本を読んでおり、私の相手をすることはなかった。他の子供ともあまり馴染めず、日本人学校は私にとって期待はずれであった。それからは、自分の順番でない時には先生の目を盗んで、こっそりと教室を抜け出したのである。
台湾大学の構内はものすごく広かった。舗装されているのは最低限の道路であとは草地のままだった。建物の近くではソテツなどの低い植物が植えられていたが、広い草地の真中にはコルク樫の大木や大王椰子が茂り、コルク樫の枝はまだら模様の影を草地に落としていた。
教室を抜け出すと私は草むらでバッタを取ったり、コルク樫のコルクを剥がしたりして遊んだ。コルク樫の幹は何重ものコルクからなっており、指を入れるとそこからバリリとはがれるのである。硬さも鰹のなまりぶし程度しかないので遊ぶにはもってこいであった。コルク樫の葉でも遊んだ。地面に落ちている葉は腐敗しており、柔らかくてこするとすぐに葉脈だけになった。だから葉脈だけの葉をたくさん作り重ねては太陽に透かしてその模様を楽しんだ。
台湾大学には萬華駅から新店駅行きの汽車に乗って行くことが出来た。萬華駅は康定路の突き当たりにある、だから道に迷うことはなかった。行きは兄弟全員で行ったが、帰りは姉の和子と二人だけである。汽車の本数が少ないので、放課後、二人は大分長い間、大学前の駅で待たされた。駅では、私達が日本人だと分ると、駅員や機関士たちがとても可愛がってくれたのである。それから私たちが萬華に戻る時には機関車に乗せてくれた。機関車で私は、石炭をくべたり汽笛を鳴らしたりして大活躍だった。そして萬華の駅では、鉄道公安官が実弾を抜いた自動拳銃の引き金を引かせてくれた事もあったのである。
遊びは他にもあった。ある日、父が
「葉兄弟から誘われたから、明日の朝の五時起きで『ペー・タウ・コッ』を撃ち行く」
と、言うのである。
長沙街の家の斜め向かいに建築材料を売る店があった。経営しているのは葉と言う兄弟である。夕方縁台を出して、父と兄が日本将棋を指していると、彼らは時々覗きにやって来た。日本将棋は取った駒がまた使えるので、それが不思議だと言うのである。
彼らは二台のオートバイを持っていた。当時はまだ乗用車はほとんど無く、オートバイであっても、商売をしている人が、仕事の為にやっと買えるような高級品である、それを二台も持っているが、彼らの自慢であった。そのオートバイに乗せて「ペー・タウ・コッ」撃ちに誘ってくれたのである。
「ペー・タウ・コッ」とは、雀にくらいの鳥で郊外に行けばどこにでもいる鳥である。白頭殻の字の通り頭の上半分が白い小鳥である。ところが国民党の憲兵が被っているヘルメットの色も白で、台湾人は憲兵のことを「ペー・タウ・コッ」と呼んで蔑称していた。だから白頭殻を撃ちに行くと言うことは、彼らにとっては二重の意味で楽しい事である。
翌朝まだ暗いうちに起きて、私たちは、葉兄弟の二台のオートバイに分乗して淡水の近くへと向かった。そこには大きな龍眼の樹があり、ペー・タウ・コッが群生していると言うのである。
暗闇の中を疾走するバイクの燃料タンクの上に私は座っていた。しっかりとハンドルの真中辺りを両手で握っていたが、振り落とされまいと必死だった。兄は同じバイクの後部座席に坐っている。彼の腕が運転者の腰を回り、私のお尻の辺りでしっかりと結ばれていることが分る。とにかく弟のバイクは速い。舗装されていない道をボンボンと跳ねながらでもスピードはけっして落とさないのである。一時間もしないうちに目当ての大樹の下に着いたが、夜はまだ明ける気配はなかった。そして十五分も過ぎてから、父を乗せた兄の方の単車がやっと着いたのである。
夜が明け始めると、龍眼の大樹の上の鳥たちが目覚め始めた。だがまだ暗いせいか枝を飛び移るが、飛び立つ鳥はいなかった。その鳥たちを狙って、弟の方が空気銃を撃つのである。現役の兵隊から戻ったばかりの彼は、本当に百発百中に近い命中率で、上手に鳥の頭を撃ち抜いて行った。彼の兄も撃ったが、当たるとしても鉛の弾が体に食い込んでおり食べるには適していなかった。
大分数が集まったので父や兄も打たせてもらった。この頃になると木陰の鳥の姿もはっきりと見えており、父や兄でも偶には当たることもあった。私も銃を持たせてもらったが、重くて自分だけではとても支えきれなかったのである。
鳥撃ちから戻ると、大きなたらいにお湯を入れて白頭殻の羽をむしって行った。むしられた鳥はがりがりに痩せており、ちいさくて可哀そうである。私はとてもこの鳥たちを食べる気がしなかったので遠くからその様子をながめていた。ところが砂糖醤油のたれを塗って焼かれた鳥たちからはとても香ばしい匂いがして来たのである。私は恐る恐る言われるまま一口だけを食べてみた。すると口の中には、えも言われぬ美味しさが広がったのだった。
ある日大叔母の家に居ると、祖母がやって来て、ついて来いと言うのである。めずらしいことだった。祖母はなにしろ何事も争わず、何事も人に要求しない人であったからである。
私の手を引いて祖母は自分の部屋へと向かった。しかし祖母の部屋には入らずに、そこから叔父の家の中へとつれて行ったのである。母からは行ってはいけないと言われていたから、叔父の家に入るのは初めてである。大叔母の家が磨き大理石の床であるのに対してこちらの方は普通のタイルの床だった。私は一番奥の、つまり大通りに面した応接間に連れていかれたのである。そこには叔父がひとりで長椅子に座っていた。
叔父は当時の日本の総理だった岸信介によく似ていた。岸信介が家に居る時はこんな風だろうと思わせるような風貌をしていた。痩せており、やや暗い感じがする人である。奇しくも岸信介が亡くなった時、蒋経国総統の代理として叔父は葬儀に参加している。国民党に入った後は主に内務畑を歩いてきた叔父は、スパイの取り締まりをする警備総司令部とも関係があったようである。
「これが善行か」
と、叔父は、ポカーン立っている私の手を取った。
「おまえのお母さんは元気か」
と、聞いた。
「元気だよ」
「そうか」
「お父さんは元気か」
「元気だよ」
「そうか」
「微香」
と、呼んだ。
寝室の方からやや神経質そうな女性が出てきた。
「これが善行だ、ヨアーの二番目の息子だ」
と、台湾語で言った。
「善行、あなたは本当に大きいね」
と、微香は言った。
そして、袋をひとつ叔父に渡した。
「善行、これを取って行きなさい。お母さんに親孝行するのだよ」
と、言って、叔父は袋を差し出した。
「ありがとう」
と、私は言って、叔父さんの手から自分の手を抜いて袋を受け取った。
微香叔母さんは、叔父さんを牛耳っている悪い人だと聞かされていた。だが私の目には優しそうな人に見えた。
祖母は私を案内すると自分の部屋に戻っていたので、私はひとりで祖母の部屋に戻った。祖母の部屋でもらった袋を開けてみると、中には十ドル札が入っていた。祖母に他の子供もつれて行ったかと聞くと和子を連れて行ったと言う。どうやら日本で生まれた二人が呼ばれてようである。
日本人学校には馴染めずに、結局四年生の夏休みに、自分から望んでまた現地の小学校に戻ることにした。二年余の短い期間であったが、日本語の読み書きだけはできるようになったのだった。
中学校を卒業した兄は、高校へは進まずに家で父の電気の仕事を手伝っていた。兄は中学三年生で台湾に渡って来たから中等部をすぐに卒業した。しかし日本人学校には高等部がなかったのと、中国語が不十分だったので、現地の高校にも入らずに父の電気の仕事を手伝いながら、英会話の学校に通っていたのである。父が金持ちの医者から大型ステレオを頼まれると兄は助手として働いた。父は自分の音楽の趣味につながるステレオ作りには労力を惜しまなかった。そして父はステレオの組み方のみならず、電気の理論から音響学等を兄に教えたのである。
父が外出すると、兄はすることがないので、よく淡水河へと、私を連れて行ってくれた。時々ボートを借りては、中洲まで漕いで行った。中洲にはテント小屋があり、そこにはアヒル飼いたちが住んでいた。アヒル飼いたちは、大抵は客家と呼ばれる勤勉な人たちで、彼らは小さなアヒルを、台湾の南部から、稲刈り後の落穂が残る田畑伝いに延々と歩行で引き連れて台北までやって来るのである。アヒルたちは落穂を食べながら来るので餌を与える必要がなかった。台湾の南部では米は年に三回取れたので、アヒル飼いたちも年に三回は北上できた。しかし台北に着くと市場で高く売る為に淡水河でしばらく肥育した。中洲に着くと、その日アヒル飼いたちは留守だった。彼らは小船も持っており、数百羽のアヒルを引き連れて、あちらこちらで水草を食べさせていたのである。小屋の外には、ドラム缶の上に乗った大釜があった。半分に切って煮られたさつま芋の残りが釜の中に幾つか入っていた。アヒルに与えた残りだろう。
帰り道、川の真中で兄がオールを持てと言う。兄は少しだけ泳ぐと言った。私は今までオールを一人で扱ったことはない。だから、私はこわいから嫌だと言ったのだが、兄は大丈夫だからと言ってボートの縁から河に入った。しばらくボートの周りをすいすいと泳いでいたが、ボートが流されはじめ何時の間にか兄とボートとの距離が広がった。戻って来いと兄は叫ぶが、しかし私が幾ら漕いでも、ボートは兄の方には向かわずに同じ所でぐるぐると回るだけである。そこにはやや強い流があったのだろう。兄はそれを見てあせり、泳いでボートに近づいて来たが、ボートの舳先が方角を変えて当たりそうになるのでなかなか近付けなかった。それで私に怒鳴りながら、あれこれと指図をするのだが、何時までもボートは安定しなかった。へとへとになりながらやっとのことでオールに掴った兄は、ボートにはい上がってきた。そして「死ぬところだった」と、私を怒鳴ったのであるが、だが私にはなすすべがなかったのである。その後、兄は英語学校で好きな娘が出来たので、そちらの方が忙しくなり、私のことには構わなくなったのである。
淡水河にも大きな時代の流れが押し寄せようとしていた。それまで河に架かっていた橋は、一九二五年に建設された「台北大橋」だけだった。当時は戦略的観点から、大きな河には橋はひとつだけが普通であった。橋が二つだと、攻められた時に守る箇所が増えるからである。だが大陸との対立が膠着状態に陥ると、国民党政権は台湾の国内経済に目を向けるようになった。これからは宣伝合戦の時代である。どちらの経済運営がうまく行き、国民がどちらの政権を選ぶかが、競争の主眼となって行ったのである。
経済の拡大に伴い市内の工場が淡水河の対岸の三重県に移るようになると、唯一淡水河に掛っている橋=台北大橋の朝夕の渋滞はひどくなった。もう交通規制だけでは問題は解決できないと悟った政府は、ついに二本目の橋を淡水河に建設することにした。台北大橋は鉄橋であったが、今度の「中興大橋」はコンクリート橋で、上下二車線と歩道を持つ本格的な道路橋である。建設は一九五八年の年初から始まった。
夏休みに入り、日本人学校をやめた私は、宿題も無く、毎日近くの中興大橋の建設現場を見に行った。当時は工事現場の管理はルーズで、私のような小学生でも、勝手に工事現場に出入りすることができたのである。
橋げたはほとんど繋がっていた。だが道路部分で出来上がっているのは梁の部分だけで、車が走る道路は相変わらず空いたままである。その梁の上をどんどん歩いて行った。所々に鉄筋が飛び出していて、躓くと下に落ちるので私は出来るだけ梁の真中を歩いた。実際の橋の高さは八メートルほどだが、私には二十米ほどにも感じられたのである。私は歩けるだけ歩いて行った。丁度中洲の辺りまで来ると、それ以上は行けなかった。資材が行方を邪魔したのである。中洲におりる階段は作られていたが、まだ鉄骨が組み上がっただけで降りられない。
中興大橋の橋のたもとに転校した西門国民学校がある。西門国民学校はエリート校である。近所の商店街の台湾人の子供を除けば、ほとんどが大陸から来た高級官僚や軍人たちの子供であり、彼らは、西門国校―建国中学―台湾大学とエリートコースを目指していた。二年間中国語による学習から離れていた私を、父母はついて行けるかと心配した。ところが私は苦もなくついて行くことが出来たし、その上一学期の期末試験では、なんと全学年二番になったのである。一学年千人もいるマンモス校の二番である。たいしたものであった。これには両親も喜びご褒美として皮靴を買ってくれたのである。そうして学校生活は今度こそは順調に行くかと思われたが、ところが歴史の授業で「倭寇」の事を教わると、私は「倭寇」の同族であると攻撃の対象になったのである。
中国の沿岸を荒らし、放火殺人を働いたと言われる倭寇だが、明の遺臣の鄭成功を助けたとか、実は倭寇の一部は中国人であったなど、歴史の考証は様々である。しかし反日反共でやってきた国民党から見ると、倭寇は民族教育の最も良い材料である。ましてや台湾人は親日に偏っている。
倭寇の事を先生が講義すると、教室内で授業中にも拘わらず、幾人もの生徒が、
「倭寇」
「倭寇」
「日本倭寇」
「江村倭寇」
と、私に向かって叫びたてたのである。
事はその程度で済めばよかった。ある日曜日の午後、校庭で遊んでいると見知らぬ子供たち三人が近づいて来て遊びに誘ってくれたのだった。他のクラスの子供から遊びに誘われるのは珍しい。人数が足りないだけだろうと私は思った。彼らは北京語で話しかけて来た。これも珍しい、普段私とつきあってくれるのは台湾人の子供たちだった。
遊びは陣地を決めて、草や砂を投げあう戦争ごっこである、危険なものではなかった。二人ずつ二組に分かれて陣取り合戦をした。ところがしばらく遊んでいると、向こうから、突然玉子大の石が私をめがけて飛んで来たのである。そして石はまともに額に当たり、額はぱっくりと割れてしまったのだった。
鮮血が私の顔面を染めた。それを見て私の方に居た子供も向こうにまわり、
「倭寇」
「倭寇」
と、大声で罵りながら、三人で石を投げて来たのである。
私はホウホウの体で家に逃げ帰った。そして近所の外科病院で治療すると、七針も縫う大けがだった。
大陸から来た子供と言っても仲の良い友達もいた。
受験勉強でピリピリしていたクラスの中で、ただひとりのんびりとしている生徒が居た。成績はあまり良くなく、時々テストでビリに近くになることがあった。ところが彼は気にもしなかった。おかしなことに先生もその事で彼を注意することがなかったのである。
彼は私に接近して来た。体育の授業で二人で組む場合も、身長も体格が違う彼は、勝手に前の方から後ろへやって来て私と組むのである。クラスには溶け込めなかった私達はよく一緒に遊んだ。家に帰りたくないのか、放課後は何時までも校庭に居て私を引き止めた。彼は運動が嫌いなので、結局二人は話をするしかなかったのである。歴史や古典が好きで、水滸伝や三国志の話をすれば、彼の方がよく知っていた。だから私は大分彼から教わったのである。
一度家に連れて行ってもらったことがある。総統府のすぐ裏に彼の家はあった。屋敷は高い壁に囲まれており、その上には更に高圧電気が通った高さ二メートルほどの鉄条網が張ってあった。壁の端の方は見えないほどの大きな家である。城塞のような門には直立不動の憲兵が二人立っており、私たちが来ると小さな通用門を開けてくれた。公園のような庭の中に洋館が幾棟か建っていた。鬱蒼と茂った大木の影が作りだす涼しさは、まるで台湾ではない別世界のようである。車庫にはキャディラックが二台あり、更にもう一台あると言う。遊歩道のような道を歩いて行くと、一番大きな屋敷が現れた。彼の祖父が住んでいる家である。そして彼もその中に住んでいると言った。
女中が出てきた。彼の鞄などを受け取り、彼をどこかへとつれて行くと、応接間にひとりで待たされた。高い天井である。普通の家の二三階分はあるだろうか。そこから大きなシャンデリアがぶら下がっていた。不気味な模様の彫ってある壁が部屋の全体を包み、私はなるべくその模様を見ないように窓の外を眺めた。時間はのろのろと過ぎて行ったのである。
彼が着替えて来ると、色々な部屋を見せてもらった。彼の祖父の書斎や寝室など、それらの部屋の何れにもドアの後ろやデスクの下などに憲兵司令部へ直通のベルが設置されていた。押せば一、二分で憲兵隊が駆けつけると言う。更に外へ逃げる地下の通路もあると言った。それは総統府へも通じていた。彼の祖父は総統府秘書長、日本で言えば官房長官の職を長年務めていた。
ある日、めずらしく父が、子供全員を洋食につれて行くと言った。父は当時走り始めたタクシーを呼んで連れて行ってくれたのは、戦前から有名なレストランであった。
その店は二階にあり、玄関に着くと、白い背広に蝶ネクタイをしたボーイが、ドアを開けてくれた。私たちが入るとマネージャーがすぐ近づき父に挨拶をした。彼はしばらく父と話をしてから、私たちを窓側の大きなテーブルに案内した。広い窓からは、ロータリーを行き交う車を、眺めることが出来た。
父は、スープを全員に頼み、前菜にハムサラダを、メインディシュにはポークカツとステーキを一つずつ頼み、更にハムと卵のフライドライスを大盛りで注文した。料理が出て来ると、父は音を立てずにスープを飲む方法、フォークとナイフの持ち方やご飯はフォークの背中に載せることなどを教えてくれた。私にとっては、初めて洋食だった。
「おいしい」
と、言うと、
「そうだろう、ここの店は台北で一番おいしい店だから」
と、嬉しそうに父が笑った。
そして食後には、子供たちにはアイスクリームを、自分にはコーヒーを注文して、コーヒーが来ると、ゆったりと飲んだ。こんなに貫禄がある父を見るのは初めてであった。
学校からの帰りは中興大橋まで出て、淡水河の傍を歩いて帰った。ある日、沢山の大人に混じって、同年輩の男の子が一人投げ釣りをしているのに出会った。子供が一人で投げ釣りをしているのはめずらしい。大体道具を買うのも大変である。私が近づいて彼の釣った魚を見ると結構釣れている。ボラやウナギが魚篭の中に入っていた。感心して見ていると彼の方から話しかけてきた。お前も投げ釣りをするかと言うのである。私が出来ない、やった事がないと言うと、教えてやるから投げてみろと、自分の竿を貸してくれたのである。この辺りは海水と真水が交りあい、スズキなどの海の魚も釣れた。特にうなぎはよく成長しており、中には一米を超す大物もいた。
私は大人のマネをして遠くまでおもりを飛ばそうとするが、うまく飛ばない。力を入れて竿を振るが、錘は目の前に落ちた。彼が色々と教えてくれてやっと四、五メートル先まで飛ぶようになったのだが、四、五メートルでは大した魚は釣れない。だから彼は自分で投げて私にリールを巻かせてくれたのである。
リールは竹で作った直径十センチほどの、小さなつむぎ車のような形をしていた。それに人差し指を入れて、くるくると巻き上げる。私が巻き終ると十センチほどのハゼが数匹掛かっていた。そうして何回か私に釣らせてくれたのだった。そして釣り終わると、彼は翌日私の家に来て釣り道具を作ってくれると言ったのである。
翌日の午後の三時頃、彼は我が家にやって来た。持って来たのは、釣竿用の竹や、紐、タール等の材料であった。そして我が家の鋸とナタとナイフを借りて、器用に竹を削いで、リールの材料をこしらえていった。蝋燭の火で、タケヒゴを丸くしていると、父と兄が見て感心をした。する彼が私に、
「お前は日本人か」
と、聞いた。
「そうだ、父が日本人だ」
と、言うと、
「僕も日本人とのアイの子だ」
と、言ったのである。
彼は私とは逆で、母親が日本人で父親は台湾人であった。彼の家では、日本語は使われていなかったので、日本語は話せなかったが、しかし聞けばそれが日本語だと分ると言った。
リール作りが終わり、釣竿を作り始めた。幾つかの太さの竹をつなぎ合せた釣竿を作る。鋸で切られた竹の中をくり抜いたり、タールを塗って防水をしたり、タールの上に糸を巻いてリールや糸通しの輪をつけたり、とても子供とは思えぬ器用さである。あまりにも上手に作るから、兄が自分の分も作ってくれと頼むと、彼はよろこんで兄の分も作ってくれた。そして竿が出来上がると、歯磨き粉のチューブを叩いて錘を作ろうとした。鉛が高くて買えないから、彼は歯磨き粉の真鍮のチュウブを細工して、中に鉄のナットを入れて錘として使っていたのである。幸い我が家には様々な電気材料がある。投げ釣り用の大きな錘も、半田用の鉛を溶かせばすぐに出来た。彼は鉛をもらって大喜びである。そして彼の分も含め、様々な錘をこしらえたのであった。立派な道具が出来上がると早速連れ立って三人で釣りに出かけたのである。
それからは週に三回ほど釣りに誘いにくるようになった。彼は小学校の五年生で同じ学年だったが、家計を助けるために、週の内三日は近所の靴修理の師匠の所で手伝いをしていた。だから三日だけしか遊べなかったのである。
五年生が終わる頃、家で父と母とが言い争う声が時々聞えてきた。どうやら母が頼母子講で貸したお金を友達が返せなくなったらしい。母は頼母子講で知人から金を借りて商売をして成功したが、今度は逆に貸した金が戻らなくなったのである。借りたのは母の長年のマージャン仲間であった。彼女は商売に失敗したと言うが、博打で負けたとのうわさもある。
もうすぐ夏休みという頃、父と兄が日本に買い出しに出かけたきり戻って来なかった。暫くすると母も商売をやめて自分も日本に戻ると言った。そしてとりあえずは久仁子だけを連れて帰るが、残りは後で迎えにくると言ったのだった。残されたのは十五才の和子と十二才の私と、そして台湾で鏡子の代わりにと生んだ五才の妹の星子の三人である。私達は長沙街の家を引き払い、大叔母の家の屋根裏に預けられた。
屋根裏と言っても、大叔母の家の屋上のほとんどを占めていたので、二十畳ほどの広さがあった。部屋の半分には祖父が引揚げたの際に残して行った骨董がたくさん保管されていた。私は時々九谷焼の観音像などの瀬戸物や美人画の掛け軸を取り出して眺めたが、何の価値も見出せなかった。古鉄なら屑鉄屋でまだしも金になるが、瀬戸物や紙きれでは小遣いにもならなかった。
子供たち三人の時間はゆっくりと過ぎて行った。姉は何時も黙って本を読んでいた。屋根裏部屋には幸い日本に戻った家族が残した本が数十冊あった。姉と私は、「柴田錬三郎」や「山手樹一郎」などの時代小説や、以前にとっていた「中学時代」や「小学六年生」等の雑誌をとり出しては読んで行ったのだった。
全ての本を読み終わるとまた繰り返して読んだ。時には姉が歌を歌った。姉は歌が得意である。数年前、日本から来た小さい歌手として、烏来(ウーライ)の民族村で歌ったことがあった。姉は島倉千代子の歌が得意である。姉が歌い出すと私も歌った。時には学校の唱歌の本や、流行歌の本を一冊全部最初から最後まで歌うことがあった。妹の星子は、部屋で遊んでいなければ、従姉たちや祖母のところで遊んでいて食事の時に戻って来た。
母親と久仁子が日本に帰ってから、二か月ほどが経っても、父からも母からも何の連絡もなかった。
ある日私は、もう父たちは戻ってこないのだと思った。姉にどう思うと聞いてみるが、分からないと言う。だが私には父たちはもう絶対に戻らないという確信が湧いた。そして私たち三人は捨てられたのか知れないと思ったのである。今までは、日本に買いだしに行くと、大体数週間から一か月で戻ってきた。その間、品物を頼んだ人が数回家に来て帰りを確認した。だから周りにいれば何時帰るかは分るのだが、今度は誰も来なかった。大叔母の応接間にもそのような来客はなかった。そう確信すると私は父が残した材料箱を探した。そこには長さ二十センチと五十センチほどの鉛の水道管と三十センチ四方で、厚さ一センチもある銅板があるはずだった。これらは貴重な物である。物資が欠乏していた当時、鉛と銅は相当な高値で取引されていた。だから父はこれらを大事にとって置いたのだった。
私はまず二十センチの鉛管を屑鉄屋に持ち込みそれを売った。屑鉄屋は何も聞かずに買い取ってくれた。二十センチほどの鉛管でも十台湾ドル以上の金になった。今なら数千円位だろうか。そして大分経ってから私は残りの鉛管を売った。その後また銅板を持ち込み売った。銅板は百ドル近い金額だった。それを小遣いにして、私はまた町へと出歩くようになったのである。
そんなある日、釣りの友人が、
「もう一緒には釣りが出来ない」
と、言った。
「なぜだ」
と、聞くと、
「家が貧乏のため、これからは学校をやめて靴職人の師匠の元に弟子入りをして本格的に靴の作り方を学ぶのだ」
と、言うのである。
だからこれからは一緒に釣りも出来ないと言うのであった。私は遊んでくれる友達さえもいなくなってしまったのだった。
それから少し経ったある日、私は彼の家を訪ねてみた。その前にも一度家の前を通ったことがあるが、中が暗くて誰も居ないようだったのでその時は素通りした。今度は彼が居た。
私は四年生の時に褒美にもらった皮靴を持って行った。縫い糸がほつれて、底がすり減っていたからそれの修理を頼んだのである。
彼は家の土間に座って靴を縫っていた。本当に狭い家で、二畳ほどの土間と同じ位の広さの寝室の二間だけの家だった。照明は暗く、靴を縫っている彼の手元がよく見えなかった。
私は靴を渡して彼に修理を頼んだ。
「この靴小さいんじゃないか」
と、彼は私の足を見ながら言った。
「大丈夫だ。まだ履ける」
「そうか」
と言って、彼は元の糸をほどきだした。
彼のお母さんが出て来て、スツールに座り、私に話しかけた。日本人が引き揚げの時、何かの理由で、彼女は台湾人の養子になったそうだ。そしてそれからとても苦労したと言う。もし自分の親が、自分を見捨てないで日本につれて帰ってくれたら、こんな暮らしにもならなかったのに、と長々と愚痴を言い続けた。だから私は友達と話すことが出来なかったのである。友達は話を聞いているのかいないのか力を入れて靴の踵を剥がしていた。
靴の修理が終わると、十ドル札を出して、修理代として彼に渡そうとした。彼は修理代は普通でも二三ドルだし、いらないと言うのであった。だが、おばさんが横から手を出して、さっとそのお金を受け取った。どうせ彼に渡してもおばさんに渡すだろうから、私はそれで良いと思った。だが彼があのような暗い部屋で一日中働いているかと思うと、とても悲しかった。
夏休みが終わり、六年生に上がる九月が来たが、私は学校には戻らなかった。学校からも何の問い合わせもなかった。私たちが長沙街を引き払った事さえも学校は知らないだろう。そうして学校との関係は切れたのである。
ある日、台風が襲来した。台風はトタン張りの屋根を吹き飛ばすかのように吹いた。部屋全体が激しく震え、妹は怖がり、姉の傍から離れようとしなかった。だが私は、家を揺がす風と雨の音を聞きながら、明日の事を考えていた。
この台風は大きいから明日淡水河へ行けば色々な物が流れているだろう。前にも台風が来た時、淡水河には様々な物が流れてきた。死んだ魚や大きな冬瓜、それに水膨れした豚の死体まで。一度は人間らしき物を見た。でも確かめられなかった。
翌朝、淡水河に向かうと長沙街の路の上まで水が溢れていた。水深が二十センチほどあったので、私はサンダルを履いたまま水門まで歩いて行った。水門は閉じられており、下には土嚢が積んである。堤防に上がると水は堤防の下、三分の一を覆い隠していた。以前は増水しても水門は閉じられたことはなく川岸まで近づけたから、今度の台風はすごいぞと思ったのである。
水門から出られないので、私は堤防の上を中興大橋へと歩いて行った。河には色々な物が浮いて流されていた。大きな草の塊や野菜や鶏、豚の死骸など、牛の死骸も見えた。時おり突風が吹いて私は飛ばされそうになると堤防の上で四つん這いになった。そして堤防の上を歩いて行くのは危険だと思い、堤防を降りて堤防の内側沿いに歩いて行った。
中興大橋のたもとに着くと橋は封鎖されていた。開通してはいたが、この日は遮断器の様な物が置かれており、橋の上は消防車等が数台見えるだけだった。上流はと見ると、河が溢れており、大漢渓と新店渓が交わる辺りでは、濁流が何時もより二三米も膨れ上がり、まるで滝のように落ちて来たのである。
中洲がある辺りに着くと、中洲は完全に水没していた。中洲に降りるコンクリートの階段は半ば水に浸かっており下は見えなかった。その階段の上で、沢山の人が何やら大声を上げて動いているのが見える。そこからは沢山のロープが河に向かって投げいれられ、何かを水から引上げようとしているのである。見れば荒れ狂う濁流の中に人が居る。人はロープの先に結びつけられた浮き輪にしがみつき、階段まで引いてもらい、何とか階段にしがみつこうとしているのである。しかし流れがきつ過ぎて、階段の近くまで来てもなかなか階段の手すりをつかむことができなかった。数人が手すりにつかまり助かったが、数人は力尽きてそのまま流されて行った。
すると橋の向こうに居た兵士が、こちらに向かって大声で叫んだ。全員が彼が指さす方向を見ると、上流から、軍隊の上陸用舟艇のような平底の船に、沢山の人が乗って流されてくるのである、しかも数隻もである。
船はどんとんと近づいてくる。幾隻かは階段の向こう側をそのまま流れ去る。だが一隻が階段の傍を通り過ぎる際、数人が競って階段に飛び移った。一人、二人は何とか階段につかまったが、数人は水に落ちて、そのまま濁流にのみ込まれて行く。その人達を救おうと、浮き輪のついたロープが次々と投げこまれて行くが、しかし水流があまりに速くてうねりが大きかったので、誰ひとり浮き輪やロープを掴めた人はいなかった。そして残りの船は淡水の海へと、疾風のように流されて行ったのであった。兵士がまた叫んだ。今度も船が流されてきた。今度も必死に階段に近づこうとする。船が階段の近くまで来ると、突然階段の下から悲鳴が聞こえた。グシャ、船はまともにコンクリートの階段に激突したのである。そして、階段の上にいた救助の人たち数人をも巻き添えにして、濁流の中へと消えて行ったのだった。
一九六一年の九月十一日、台湾北部を襲った台風パメラは、最低気圧九一○ミリバールと言う猛烈な台風であった。台風は太平洋上で成長し、そして台湾北部の山脈にぶつかると、淡水河の水源地に豪雨をもたらした。
そこから流れ出た水は一気に、台北近郊の新店を襲った。新店は淡水河の源流新店渓が大きく蛇行する場所である。当時、出水を予想して軍隊が住民の避難を行っていたが、そこに怒涛のような水が押し寄せたのである。そして新店地域を覆い尽くした水は、救助していた船舶をも押し流して、下流の淡水河へと流れ出た。
死者百九十一名、負傷者千八百四十七名、家屋の全壊一万二千三百四十九棟、半壊二万六千四百四十二棟とパメラの被害は甚大なものだった。このような洪水を防ぐために、大漢渓上流では石門水庫が建設されてはいたが、ダムが完成したのは台風の三年後の一九六四年の六月の事である。更に新店渓のダムが完成するのは一九八七年まで待たねばならない。
淡水河に途中で流れ込む河として基隆河がある。基隆河は標高五百六十米の平渓山から流れ出る。全長八十六キロと新店渓よりも長い。平渓山は台湾で最も雨が多い地帯である。更に基隆河はクネクネと蛇行しながら流れる河で水害が絶えない河である。基隆河はその名称になった台北市北東の基隆市を経由して台北市の北側を通り抜けて、淡水河のちょうど真ん中辺りで淡水河へと流れ入る河である。
台北市の北東に位置し、太平洋に面する基隆市は台北市の海の玄関である。台湾北部の海運による貨物はここから出入りする。現在は与那国島経由、石垣島行きのフェリーも出ている。
一九六二年の五月。屋根裏部屋に残されていた三人は、従姉につれられて基隆港にやって来た。母が日本で落ち着いたからと、呼び寄せたのである。
基隆港の岸壁には大きな汽船が停泊していた。乗客も貨物をも運ぶ貨客船である。初めて見る巨大な船に私はわくわくした。この船に乗って日本に戻るのである。
二段ベッドが二つある船室に私たち三人を入れると従姉は船を降りて行った。残された三人はそれぞれのベッドを選んで、自分の荷物を片づけてから甲板へと出た。台湾の景色を見ておこうと思ったからである。いよいよ台湾ともお別れである。はしゃぐ私と妹に比べて、姉は静かだった。
夕方、船は基隆港を出発した。翌朝早くに起きて外に出ると台湾の山並が見えた。中央山脈の三千米級の山々だろう雪が見える。船は直接日本には向かわずに台湾海峡を南下していた。台南港でバナナを積むためである。そして更に南下して高雄に入り、そこで更に乗客を積んでから、台湾とフィリッピンの間のパーシー海峡を抜けて、やっと北上したのである。
神戸港に着いたのは基隆を出てから一週間が経っていた。小雨降る肌寒い神戸港の大桟橋で、母は船上の三人に向かって手を振っていた。
(了)
康定路の家に一か月ほど住んだ後、私たちは二百米ほど離れた長沙街の家に引っ越した。長沙街は台湾の政治の中心である総統府の真裏から、淡水河の水門まで延びる道である。私たちが住む河に近い方は下町であった。
康定路の家から長沙街に向かうと小さな半円形のロータリーがある。そこには龍山寺に並ぶと言われる台北三大寺廟のひとつ「清水巌祖師廟」がある。このお寺で祭られているのは黒い顔をした道教神で、「落鼻祖(らくびそ)」とも呼ばれている。災難が起こりそうになると鼻が落ちて警告してくれると言う変な神様である。
この「清水巌祖師廟」の向かいにコンパスの足のように二筋の道が出ている。左が貴陽街、右が長沙街である。この「祖師廟」から淡水河までの貴陽街と長沙街の間は昔は蕃薯市と呼ばれていた。この辺りが萬華の中でも一番古い街である。今でも「艋舺老街」とよばれている。
私たちが到着して間もなく、大叔母は私たち家族と林公樹のおめかけさん一家を住ませる為に、祖師廟から淡水河に百メートルほど入った所に二階建ての家を一軒購入した。二階部分は最初から住居になっていたので、林公樹一家はすぐに引越したのだが、一階部分は店舗スペースとして作られていたから、それを改造してから私たち一家は引っ越したのである。
移ってからしばらく経ったある日、林公樹が二階から降りてきて
「ヨアーの料理が食べたいな」
と、言った。
母は料理が得意である。以前台湾に居た頃は、お祭りや宴会で、度々腕を振るったのだった。それを林公樹が言うと、母は喜んで受けた。そして私たちは、林公樹と父母の共通の知人と、更に近所の人たちも招いて宴会を催すことになったのである。
一階の応接間にはまだ家具は入ってなかった。そこに、借りてきた大きな円卓を二つ並べた。二十人が来ても大丈夫だ。当日の昼過ぎ、林公樹が魚市場から、母が頼んだ大きな真鯛とモンゴイカを運ばせて来た。その他に母は、市場で鶏やアヒルと冬瓜などを買って来た。
夕方、三々五々と客が集まって来た。食事は六時からだったから来客が揃うまでにまだ一時間ほどある。林公樹が競争をしようと言いだした。台湾の宴会では料理が出てくる前にテーブルには干した西瓜の種が置いてある。それを、幾粒か口に入れて、口の中で歯と舌だけを使って割って中身を食べる速度を競うのである。食べ終わると皮だけをペッペッと掌に吐き出した。お互いに速さときちんと食べたことを確かめる遊びだが、見た目はあまりよろしくない。しかし来客の器用不器用が分かって面白かった。負けた方が罰としてビールを飲まされるのである。
私も大人の真似をして、ひと粒口に入れて、舌と歯で割ってみた。ところが手に持って食べることさえも難しいのでとても出来なかった。それを大人は五粒も十粒も口に入れてあっという間に種を割って食べるのである。
料理が出てくる頃にはビールで大分テンションが上がっていた。母が作った蒸した真鯛やモンゴ烏賊の刺身などが出てくると、今度は紅露酒と言う紹興酒のような酒を出して来て、ジャンケンのような数当てをした。二人が同時に両手の任意の指を出して合計の数を当てるのである。
「八(パ)」「十(ザッツ)」。
「十三(ザッサア)」「五(ゴ)」。
「二十(リーザッ)」「十二(ザッリー)」。
と、二人が同時に大声で叫ぶのであった。当てられなかった方は紅露酒を一口で呷った。その内、人数が増えて、四人が片手だけを出して数当てをした。四人が大声で全員の合計数を叫んだ。当たると外れた三人が酒を呷るのである。ただのばか騒ぎとしか思えなかった。しかし手に大きな蒸し鶏の腿を持つ私にとって、宴会は楽しいものであった。
母は夜外出をする時、よく私を一緒に連れて行った。父は大概外に出ていたし、兄姉たちは本を読んでいることが多く、私ひとりがする事がなかったからである。その日は夕食が終わると親友の愛敬の家につれて行った。愛敬は母の幼稚園からの友人で、生涯仲の良い友達だった。
私はマージャンに付き合わされるのが嫌だったが、愛敬さんの家ならお菓子がいくらでも自由に食べられるので我慢してついて行った。
大人は麻雀に夢中であった。することがない私は窓の外を眺めようとした。すると、
「窓のカーテンを開けてはいけない」
と、愛敬が叫んだのである。
愛敬の家の窓には、暑苦しい台湾に似合わない厚いベルベットのカーテンが掛っていた。
「そこは拷問があるから」
と誰かが、下手な日本語で言った。
「拷問」「拷問」って、と思った。
拷問の意味はなんとなく分かるような気がした。怖くなった私は窓から麻雀台の方へと引き返した。
マージャンは延々と続いた。もう夜の八時を過ぎていた。私は眠くて眠くてしかたがなかったので、母にぐずった。
「ソファで寝ていれば」
と、母が言った。
ソファは窓の傍にある。もうみながマージャンに夢中になり誰も私に関心を向けてくれなかった。
私はソファに座るふりをしながら、恐る恐るカーテンの隙間から向いの建物を覗いて見た。
壁に囲まれた重厚な石造りの建物だった。壁と建物の間は二メートルほどの空間がある。そこから地下室の窓が見えた。鉄格子が嵌った大きな窓の中は、明かりが煌煌と灯されており、部屋の中には粗末な木の机と椅子が置かれていた。そして陰の方で何かが動いている。棒のような物が振られているような影が見える。
突然手を捉まえられて、カーテンの隙間が閉じられた。
「開けてはだめ!見られたら捉まるから」
と、愛敬が私を叱った。当時東本願寺別院は憲兵隊本部として使われていた。
台湾語が少し話せるようになると、私は家の近所をひとりでまわるようになる。台湾の治安は当時は安定しており、子供がひとりで出歩いてもあまり危険はなかった。道路にはトラック代りの牛車か、自転車、三輪車くらいしか動いている物はない。牛車を曳く牛は大概は黄牛と呼ばれる黄色い牛で、時々灰色の水牛が曳く牛車にも出会うことがあったが、水牛は気性が荒く、荷物運びには向いていないと言われていた。牛たちは黙々と働く事を要求されていたのである。
牛車は四輪の頑丈な大八車で、一トンもの荷物が積めた。その重量を支える車輪はトラックの中古タイヤが使われていた。山ほどの煉瓦やセメント袋を積んだ牛車は、少しの坂道でも前に進めず、少し進んでも後戻りをする。そうなると御者の阿兵哥が、自分も消防ホースのような肩紐を肩にかけて牛と一緒に車を引いた。それでも駄目な場合、御者は傍を通る牛車に応援を頼んだ。降りてきた御者は車の後ろを押したが、それでも動かない場合には、自分の牛を引いて来て、二頭で車を曳かせるのである。
牛は飼葉桶から餌を食べながら歩いた。そしてぼたぼたと糞を落として行くのである。糞を落とすと御者がすぐにスコップを持って集めた。汚いからではない、糞も肥料として高く売れるのである。
長沙街を西の端まで歩けば淡水河に出会う。河の前には堤防がありところどころに水門が作られている。水門を抜けると少し土の川岸があり、その先には広い砂浜が広がっていた。川幅は広いところでは一キロもあり人が住めるほどの大きな中洲があったのだが、誰も住んではいなかった。水は汚染されておらず、泳げたし、広い砂浜にはヤドカリやカニがいくらでもいた。それらを捕まえて遊んでいれば、いつの間にか時間は過ぎ去って行くのである。
コンクリートの堤防は垂直に切り立っており、地形に合わせて高さは二メートルから五メートルと異なっていた。上部の厚さは六十センチほどもあり、その上を歩くことができた。堤防の一定区間には階段代わりの鉄のクサビが打ち込まれており、それでよじ登ることが出来た。上に登ると河沿いをどこまでも歩いて行けるのである。
私は堤防を登るのが大好きだった。高い所では少し怖かったが、堤防に腰かけて中洲で動くアヒルの大群や、向こう岸の農家の景色を眺めていると心が落ち着いた。夕方、河向うに夕陽が沈む時、柿色の空とゆらゆらと夕陽を映す淡水河のさざ波や、土壁の農家を見ていると、何とも言えぬ安らぎを感じるのである。特に風があると一日の暑さを忘れさせてくれるのだった。
私はひとりで遊べるようになると、淡水河のみならず、近所の街の隅々までも探検した。そして何時も鼻をたらし、それを両腕で拭いていたので、うす汚れた顔の上には洟の跡が大きく左右に伸びて豪傑のような髭の模様になっていた。それを見た近所の人が、
「オービンチョンクン(黒顔将軍)」
と、私を呼んだのである。私はそう呼ばれるのが嫌だった。
八月末のある日、
「善行は小学校に入るまで、あと半年はあるから、こっちの小学校に幼稚園代わりに入れるか」
と、父が言った。
兄姉たちは九月から日本人学校に転入することが決まっていた。
台湾では小学校は六歳で入学し、新学期は九月からである。そうして、私は台湾に来てから三か月が過ぎた時から、近所の龍山国民学校に通うようになったのである。もうその頃になると、私は台湾人の子供同様台湾語が流暢に話せたし、台湾人の子供も入学前は北京語が話せなかったので、入学時点での変わりはない。
しかし、自由に町中を走り回っていた「黒顔将軍」にとって、学校とは窮屈な場所である。学生服は、軍装に似たカーキ色のシャツに同色の半ズボン。バックルがついたグリーンのベルトに編み上げの靴は、正に軍国調で、引き締まっては見えるが、自由のない窮屈なものであった。
龍山国民学校入ると、担任は繆(ミヤオ)という若い女性の先生だった。彼女はすらりとしており、目鼻立ちもすっきりとしていたので、さすがに大陸から来た先生は違うなと思った。台湾の女性はおしなべてずんぐりとした体形であった。
繆先生は安徽省の出身である。台湾語はほとんど話さなかった。一方、入学したばかりの児童は大陸から来たほんの一握りを除くと、ほとんどが北京語に接するのが初めての台湾人の子供である。そこで先生は最初から、一切の説明を抜きに黒板に書いた文字を自分の発音通りに繰り返し練習をさせた。私は勘が良かったのだろうか、すぐに先生の音にも慣れてついて行けたが、数人の子供たちはどうしても先生の発音について行けなかった。そうすると先生の愛の鞭がとぶのである。
当時台湾では教室での体罰は公認されていた。入学時に親が、先生どうぞこの子を、ビシビシと叩いて仕込んで下さいとお願いするのが普通であった。繆先生は一メートルほどの藤の鞭でそれを実行した。
入学後の一カ月間、毎日が発音記号の勉強と発音練習の繰り返しである。そして当日にならった発音記号は家に帰ってノートに書き写さなければならない。ノートや鉛筆が買えない子もいたが、そんな子供には、先生は鉛筆を与えて、どんな紙でも良いから書いて来なさいと、必ず宿題を提出させたのである。
一ヶ月を過ぎると学習の成果を試すテストが始まった。先生が作るクラスのテストの他に、学年の実力テストが毎週あった。更に毎月、学校が作る先生をも含めて評価する総合テストがあった。このテストでは先生の実績も評価されるので先生も必死である。
二か月目から漢字を教えたが、教えられた翌日その漢字がテストされた。もし間違いがあったとすると罰として、間違い一つにつき鞭で手のひらを一回叩かれた。漢字は大体一日十個程度教わるから、数箇所を間違った子供は悲惨である。
先生は手加減をしない、だからビシッという音が教室に響くと全員が自分が打たれたかのように首を引っ込めた。その上打った回数をぶたれた生徒自身に数えさせた。もし数え間違えて前の数を言えば、もう一回そこから始まった。もし一回飛ばしてでも数えようものなら、それまで叩いた分も取り消して最初からやり直すのである。
あまりの痛さに生徒が手を引くと、容赦なく半ズボンから剥き出しの足を鞭で叩いた。足を庇おうとして手を出すと、その上にも鞭を振るった。これらは手を差し出させるためのものであり、罰の数としては入っていない。子供は慌てて手を出して残りの回数を、歯を食いしばって我慢するしかなかった。
五回以上たたかれると掌がはれあがり、皮が破れて血を出す子供もいる。だが先生は容赦しない。まる自分が大陸から追い出されたのが、この子たちにも責任があるように――そんなやわな気持ちだから大陸から追い出されるのよ!これからはあなた達にしっかりしてもらうからね!
「反攻(ファンコン・)大陸(ダールウ)!」
「反攻(ファンコン・)大陸(ダールウ)!」
と、心の中で叫びながら鞭を振りおろしたのだろうーー。
朝鮮戦争が終わり、大陸へ戻れる可能性がほとんどなくなると、国民党軍と一緒に渡って来たこれらの文民の心の中にやるせなさが満ちていた。軍人なら戦って負けた事実があって納得も出来ただろうが、知識人、特に自由主義を信じて教育や社会運動に身を投じてきた者たちにとって、自分たちの方が正しいことをしているのに、なぜなんだと、どうしても気持ちが収まらないのである。これらの人たちは反攻の望みを捨てる訳にはいかなかった。だがそれに対して、台湾人は冷やかだった。「反攻大陸など不可能なことさ、勝手にほざけ」と、言う態度がありありとみえていたのである。日本と八年戦って、台湾を解放し、自由を与えたのに、今では、まるでそれが余計な御世話だったとでも言わんばかりである。
二年生になると、台湾人の男性の先生に変わった。この先生はあまり子供を叩かなかったが、が生徒のえり好みをしたので私は嫌いだった。放課後よく家にやって来て「私が賢い子供である」とか「成績が良い」とか、何かと母におべっかを使っているのを聞いた。聞くと田舎の家が台風で壊れたので母から修理代を借りに来たのだと言う。
二年生も中頃になると、私はまっすぐ家には帰らずに龍山寺や近くの商店街に寄り道をするようになる。龍山寺の境内は少々薄気味悪かったが、他の子供が近づかないので、私にとっては格好の遊び場であった。しかし私にとって一番の楽しみは、自由気ままな街歩きである。佐賀と違って萬華の街は色々な店やお寺があって、それも通りの間に挟まっており驚きの発見があった。
ある日の午後、学校が終わると、学校から淡水河へ直接出てみようかと考えたのだった。その方向には一度も行ったことがない。母からはそちらには行ってはいけないと言われていた。確かにその方角は町並みもうら寂しく面白い物があるとは思えなかったのだが、しかし私の好奇心は少しずつ積重なって行ったのである。
もう行ったことのない場所は限られていた。それにもし行くとすれば淡水河の堤防を目指せば良い。堤防にはかならず突き当るから、家までは堤防の上を歩けば帰れると私は確信して行ってみることにしたのである。
その日学校を出たのは午後の四時頃で日暮れまでにはまだ少し時間があった。学校から淡水河の堤防までの距離はわずか数百メートルだろう。家から堤防までの距離とほぼ同じである、だから私は気楽であった。だが、学校から数分も歩かない内に大きな通りにぶつかった。その通りの向こうはつき当たりである。そこから道は、真っ直ぐ堤防の方には向かわずに、左右何れかの斜めに入る路地しかなかった。建物もこちら側の二階建ての煉瓦作りの家とはちがい、木造平屋の住宅がごちゃごちゃと建っていた。
躊躇はしたが、思いきって大通りを渡り右の路地へと入って行った。路幅は狭まく、路地は中で幾重にも曲がっている。先ほどまでは右に見えた影が、いつの間にか前に来て、そして左へと、何回も変わった。それでも大体の方向は掴んでいると思ったので歩き続けた。だが歩けども歩けども堤防には突き当らなかった。その内アスファルトの舗装もなくなり泥道になった。まわりからは住宅が消え、ベニヤの合板を張り合わせたような四角いバラックが集まっている場所に出たのである。バラックの前の道はでこぼこで、あちらこちらに水たまりがあった。私は引き返そうかと思ったが、もう大分歩いて来たのでもう少し歩けば堤防に突き当たるのではないかと思った。それに引き返しても、もう方角には自信が持てなかったのである。
ひしめき合うバラックの門はのこぎりで切りとられたようにささくれだっていた。ドアは無く、中はと覗くと薄暗く何も見えなかった。門の周りを薄い寝巻きを来た女性が数人立ったり、スツールに腰かけてたりしていた。タバコをふかす者や、アイスキャンディーを舐める者、それぞれが手持ち無沙汰そうである。誰もが私をジーと見つめていた。私は漠然とした恐怖を覚えた。
アイスキャンディーを持っている若い娘が、声をかけてきた。
「坊や、どこへ行くの」
「堤防へ」
「堤防はそっちではないよ」
「ではどこ」
「ここからは行けないよ」
「どうすれば行けるの」
私は段々と心細くなりながら聞き続けた。
時間は大分経っている。もう夕暮れが近づいていた。
「ハハハ!」
突然横にいた年配の女性が笑った。
「ここからはどこへも行けないよ、ここはどん詰まりだよ、私たちはどん詰まりに居るのさ」
すると、近くのバラックの女性たちも一斉に笑いだした。私はおののいた。
「おいで坊や、アイスキャンディーをあげるから」
と、最初に声を掛けた若い娘が、新しいアイスキャンディーを持って来て差し出した。
「あらら、お気に入り」
と、年配の女性が言った。
するとまたどっと笑い声は起きた。私はアイスキャンディーどころではなかった。慌てて身を引いた。
「いじめないでよ」
と、彼女は怒った。
彼女が立つドアの奥は、小さな部屋のようなに幾つに区切られており、中は真っ暗だったが、何かが隠れているような気がした。私は襲われるかのような不安を覚え慌てて来た道を引き返したのである。
「またおいでよ、坊や、もっと大きくなってからね」
「ハハハ」
「ハハハ」
「ワハハ!」
たくさんの笑い声が私をおっかけてきた。
必死になって私は今来た道を戻った。どのくらい走ったのだろうか、斜めの道に出た。見たことがない道である。しかし学校を出た時、私は太陽に向かって歩いたので、今度は自分の影が目の前にあるのを見て思い切って渡った。薄暮がせまり家々の明かりがすこしづつ灯り始めた。もう時間はあまりないことを感じたのだが、学校は一向に現れなかった。
また変な場所へと出た。先ほどまでは薄暗い中を歩いていたのに、急に明るくなったのである。道路の両側の商店街がネオンで飾られ、まるでおとぎの国のようである。街全体が同じ作りで、どの店先にもカウンターがあり、その上には棒のような物が載っている。更に奥に陳列されている商品はどれも小さく、中にはくるくると回る台に飾られている物もある。おそるおそる近づいて見ると、棒のような物はコルク銃である。そしてカウンターの向こう側の棚には、十センチほどの古代の官吏や宮女の姿をしたの赤や緑の泥人形が載せられていた。グルグルと回っているのは段々になった傘の様な回転台である。初めて見る光景であるが、射的場であることがすぐに分かった。街の両側全体が射的場である。まだ時間が早いせいか客はおらず、ネオンサインだけが明るく、この不思議な光景を生み出していたのである。
そう言えば、一度母と三輪車で龍山寺にお参りに行った時この景色を見たことがある。その時、「そちらから行ってはいけない」と、母が三輪車夫に命じていた。三輪車夫はすぐに道を変えて龍山寺に向かったのだが。そうだその道だ、貴陽街の青山宮に出る道である。青山宮は龍山寺・祖師廟に並ぶ萬華三寺であるが、中には恐ろしい顔をした地獄の使者の七爺・八爺が祭られており、台湾のお盆の時に町を高下駄を履いて練り歩くのを見て、唯一私が近づかない寺である。だがこの道を行けば家に帰れる。私は落ち着きを取り戻して、店の中を覗く余裕が出てきたのであった。
私が迷った場所は当時「宝島緑」と言って、主に阿兵哥を相手にする売春街があったところである。射的場の道は、今は華西街として、台北一の屋台街になっており、多くの観光客を集めている。
萬華三寺とは、龍山寺、祖師廟そして青山宮の三寺廟である。
龍山寺と残りの二つの寺廟は、丁度三角定規の位置関係にあり、三十度の角に龍山寺があり、青山宮は九十度の角、そして祖師廟は六十度の角の位置に当たる。この三寺を回っても歩く距離は一キロ程度である。古い萬華を楽しむにはもってこいのコースである。。
青山宮は福建省泉州市恵安県の土地神様と言われている。昔疫病が流行った時、住民は故郷の土地神様をこの地に移して大厄を避けようとした。淡水河から上陸し、奥へと運ぼうとした時、この辺りで神輿が担げないほど重くなり、お告げによるとここで良いと言われたのでお宮を建てたと言う。そしてお参りをした者たちは疫病になっても大事には至らなかったと言うのである。
青山宮のご本尊は青山王と呼ばれ、他に様々な由来もある。地獄の判官をも統括する神様であるから七爺・八爺達をしたがえているのである。
二年生をすこし残す頃になると、私は時々学校へは行かずにそのまま龍山寺やその周辺で遊ぶようになった。学校から通知があると、母は私をぶったが、それでも不登校は止まなかった。不登校を続ける私を、父はとうとう日本人学校へ転校させることにした。四月、龍山国民学校での二年生の学期を二ヶ月残して、私は日本人学校で二年生を最初からやりなおすことになったのである。日本人学校とはどんなものかと私はおおいに期待した。兄と姉たちは毎日自由な服装で学校に通っていたし、教科書も色刷りできれいだった。
私が入学した時、台北の日本人学校の生徒数は、小学生が十数人と中学生が三人の二十人たらずの小さなものであった。中学生は、校長の高坂先生が自宅で教えていたので、小学校は台湾大学の構内の一室を借りて全員がそこで学んでいた。
授業は太った中年の女性が一学年ごとに十分程度順番で教えるものであった。他の学年の生徒はその間は自習をした。
私はすぐに退屈を覚えた。教室には四年生の和子が居たが、姉は自習の時は何時も静かに本を読んでおり、私の相手をすることはなかった。他の子供ともあまり馴染めず、日本人学校は私にとって期待はずれであった。それからは、自分の順番でない時には先生の目を盗んで、こっそりと教室を抜け出したのである。
台湾大学の構内はものすごく広かった。舗装されているのは最低限の道路であとは草地のままだった。建物の近くではソテツなどの低い植物が植えられていたが、広い草地の真中にはコルク樫の大木や大王椰子が茂り、コルク樫の枝はまだら模様の影を草地に落としていた。
教室を抜け出すと私は草むらでバッタを取ったり、コルク樫のコルクを剥がしたりして遊んだ。コルク樫の幹は何重ものコルクからなっており、指を入れるとそこからバリリとはがれるのである。硬さも鰹のなまりぶし程度しかないので遊ぶにはもってこいであった。コルク樫の葉でも遊んだ。地面に落ちている葉は腐敗しており、柔らかくてこするとすぐに葉脈だけになった。だから葉脈だけの葉をたくさん作り重ねては太陽に透かしてその模様を楽しんだ。
台湾大学には萬華駅から新店駅行きの汽車に乗って行くことが出来た。萬華駅は康定路の突き当たりにある、だから道に迷うことはなかった。行きは兄弟全員で行ったが、帰りは姉の和子と二人だけである。汽車の本数が少ないので、放課後、二人は大分長い間、大学前の駅で待たされた。駅では、私達が日本人だと分ると、駅員や機関士たちがとても可愛がってくれたのである。それから私たちが萬華に戻る時には機関車に乗せてくれた。機関車で私は、石炭をくべたり汽笛を鳴らしたりして大活躍だった。そして萬華の駅では、鉄道公安官が実弾を抜いた自動拳銃の引き金を引かせてくれた事もあったのである。
遊びは他にもあった。ある日、父が
「葉兄弟から誘われたから、明日の朝の五時起きで『ペー・タウ・コッ』を撃ち行く」
と、言うのである。
長沙街の家の斜め向かいに建築材料を売る店があった。経営しているのは葉と言う兄弟である。夕方縁台を出して、父と兄が日本将棋を指していると、彼らは時々覗きにやって来た。日本将棋は取った駒がまた使えるので、それが不思議だと言うのである。
彼らは二台のオートバイを持っていた。当時はまだ乗用車はほとんど無く、オートバイであっても、商売をしている人が、仕事の為にやっと買えるような高級品である、それを二台も持っているが、彼らの自慢であった。そのオートバイに乗せて「ペー・タウ・コッ」撃ちに誘ってくれたのである。
「ペー・タウ・コッ」とは、雀にくらいの鳥で郊外に行けばどこにでもいる鳥である。白頭殻の字の通り頭の上半分が白い小鳥である。ところが国民党の憲兵が被っているヘルメットの色も白で、台湾人は憲兵のことを「ペー・タウ・コッ」と呼んで蔑称していた。だから白頭殻を撃ちに行くと言うことは、彼らにとっては二重の意味で楽しい事である。
翌朝まだ暗いうちに起きて、私たちは、葉兄弟の二台のオートバイに分乗して淡水の近くへと向かった。そこには大きな龍眼の樹があり、ペー・タウ・コッが群生していると言うのである。
暗闇の中を疾走するバイクの燃料タンクの上に私は座っていた。しっかりとハンドルの真中辺りを両手で握っていたが、振り落とされまいと必死だった。兄は同じバイクの後部座席に坐っている。彼の腕が運転者の腰を回り、私のお尻の辺りでしっかりと結ばれていることが分る。とにかく弟のバイクは速い。舗装されていない道をボンボンと跳ねながらでもスピードはけっして落とさないのである。一時間もしないうちに目当ての大樹の下に着いたが、夜はまだ明ける気配はなかった。そして十五分も過ぎてから、父を乗せた兄の方の単車がやっと着いたのである。
夜が明け始めると、龍眼の大樹の上の鳥たちが目覚め始めた。だがまだ暗いせいか枝を飛び移るが、飛び立つ鳥はいなかった。その鳥たちを狙って、弟の方が空気銃を撃つのである。現役の兵隊から戻ったばかりの彼は、本当に百発百中に近い命中率で、上手に鳥の頭を撃ち抜いて行った。彼の兄も撃ったが、当たるとしても鉛の弾が体に食い込んでおり食べるには適していなかった。
大分数が集まったので父や兄も打たせてもらった。この頃になると木陰の鳥の姿もはっきりと見えており、父や兄でも偶には当たることもあった。私も銃を持たせてもらったが、重くて自分だけではとても支えきれなかったのである。
鳥撃ちから戻ると、大きなたらいにお湯を入れて白頭殻の羽をむしって行った。むしられた鳥はがりがりに痩せており、ちいさくて可哀そうである。私はとてもこの鳥たちを食べる気がしなかったので遠くからその様子をながめていた。ところが砂糖醤油のたれを塗って焼かれた鳥たちからはとても香ばしい匂いがして来たのである。私は恐る恐る言われるまま一口だけを食べてみた。すると口の中には、えも言われぬ美味しさが広がったのだった。
ある日大叔母の家に居ると、祖母がやって来て、ついて来いと言うのである。めずらしいことだった。祖母はなにしろ何事も争わず、何事も人に要求しない人であったからである。
私の手を引いて祖母は自分の部屋へと向かった。しかし祖母の部屋には入らずに、そこから叔父の家の中へとつれて行ったのである。母からは行ってはいけないと言われていたから、叔父の家に入るのは初めてである。大叔母の家が磨き大理石の床であるのに対してこちらの方は普通のタイルの床だった。私は一番奥の、つまり大通りに面した応接間に連れていかれたのである。そこには叔父がひとりで長椅子に座っていた。
叔父は当時の日本の総理だった岸信介によく似ていた。岸信介が家に居る時はこんな風だろうと思わせるような風貌をしていた。痩せており、やや暗い感じがする人である。奇しくも岸信介が亡くなった時、蒋経国総統の代理として叔父は葬儀に参加している。国民党に入った後は主に内務畑を歩いてきた叔父は、スパイの取り締まりをする警備総司令部とも関係があったようである。
「これが善行か」
と、叔父は、ポカーン立っている私の手を取った。
「おまえのお母さんは元気か」
と、聞いた。
「元気だよ」
「そうか」
「お父さんは元気か」
「元気だよ」
「そうか」
「微香」
と、呼んだ。
寝室の方からやや神経質そうな女性が出てきた。
「これが善行だ、ヨアーの二番目の息子だ」
と、台湾語で言った。
「善行、あなたは本当に大きいね」
と、微香は言った。
そして、袋をひとつ叔父に渡した。
「善行、これを取って行きなさい。お母さんに親孝行するのだよ」
と、言って、叔父は袋を差し出した。
「ありがとう」
と、私は言って、叔父さんの手から自分の手を抜いて袋を受け取った。
微香叔母さんは、叔父さんを牛耳っている悪い人だと聞かされていた。だが私の目には優しそうな人に見えた。
祖母は私を案内すると自分の部屋に戻っていたので、私はひとりで祖母の部屋に戻った。祖母の部屋でもらった袋を開けてみると、中には十ドル札が入っていた。祖母に他の子供もつれて行ったかと聞くと和子を連れて行ったと言う。どうやら日本で生まれた二人が呼ばれてようである。
日本人学校には馴染めずに、結局四年生の夏休みに、自分から望んでまた現地の小学校に戻ることにした。二年余の短い期間であったが、日本語の読み書きだけはできるようになったのだった。
中学校を卒業した兄は、高校へは進まずに家で父の電気の仕事を手伝っていた。兄は中学三年生で台湾に渡って来たから中等部をすぐに卒業した。しかし日本人学校には高等部がなかったのと、中国語が不十分だったので、現地の高校にも入らずに父の電気の仕事を手伝いながら、英会話の学校に通っていたのである。父が金持ちの医者から大型ステレオを頼まれると兄は助手として働いた。父は自分の音楽の趣味につながるステレオ作りには労力を惜しまなかった。そして父はステレオの組み方のみならず、電気の理論から音響学等を兄に教えたのである。
父が外出すると、兄はすることがないので、よく淡水河へと、私を連れて行ってくれた。時々ボートを借りては、中洲まで漕いで行った。中洲にはテント小屋があり、そこにはアヒル飼いたちが住んでいた。アヒル飼いたちは、大抵は客家と呼ばれる勤勉な人たちで、彼らは小さなアヒルを、台湾の南部から、稲刈り後の落穂が残る田畑伝いに延々と歩行で引き連れて台北までやって来るのである。アヒルたちは落穂を食べながら来るので餌を与える必要がなかった。台湾の南部では米は年に三回取れたので、アヒル飼いたちも年に三回は北上できた。しかし台北に着くと市場で高く売る為に淡水河でしばらく肥育した。中洲に着くと、その日アヒル飼いたちは留守だった。彼らは小船も持っており、数百羽のアヒルを引き連れて、あちらこちらで水草を食べさせていたのである。小屋の外には、ドラム缶の上に乗った大釜があった。半分に切って煮られたさつま芋の残りが釜の中に幾つか入っていた。アヒルに与えた残りだろう。
帰り道、川の真中で兄がオールを持てと言う。兄は少しだけ泳ぐと言った。私は今までオールを一人で扱ったことはない。だから、私はこわいから嫌だと言ったのだが、兄は大丈夫だからと言ってボートの縁から河に入った。しばらくボートの周りをすいすいと泳いでいたが、ボートが流されはじめ何時の間にか兄とボートとの距離が広がった。戻って来いと兄は叫ぶが、しかし私が幾ら漕いでも、ボートは兄の方には向かわずに同じ所でぐるぐると回るだけである。そこにはやや強い流があったのだろう。兄はそれを見てあせり、泳いでボートに近づいて来たが、ボートの舳先が方角を変えて当たりそうになるのでなかなか近付けなかった。それで私に怒鳴りながら、あれこれと指図をするのだが、何時までもボートは安定しなかった。へとへとになりながらやっとのことでオールに掴った兄は、ボートにはい上がってきた。そして「死ぬところだった」と、私を怒鳴ったのであるが、だが私にはなすすべがなかったのである。その後、兄は英語学校で好きな娘が出来たので、そちらの方が忙しくなり、私のことには構わなくなったのである。
淡水河にも大きな時代の流れが押し寄せようとしていた。それまで河に架かっていた橋は、一九二五年に建設された「台北大橋」だけだった。当時は戦略的観点から、大きな河には橋はひとつだけが普通であった。橋が二つだと、攻められた時に守る箇所が増えるからである。だが大陸との対立が膠着状態に陥ると、国民党政権は台湾の国内経済に目を向けるようになった。これからは宣伝合戦の時代である。どちらの経済運営がうまく行き、国民がどちらの政権を選ぶかが、競争の主眼となって行ったのである。
経済の拡大に伴い市内の工場が淡水河の対岸の三重県に移るようになると、唯一淡水河に掛っている橋=台北大橋の朝夕の渋滞はひどくなった。もう交通規制だけでは問題は解決できないと悟った政府は、ついに二本目の橋を淡水河に建設することにした。台北大橋は鉄橋であったが、今度の「中興大橋」はコンクリート橋で、上下二車線と歩道を持つ本格的な道路橋である。建設は一九五八年の年初から始まった。
夏休みに入り、日本人学校をやめた私は、宿題も無く、毎日近くの中興大橋の建設現場を見に行った。当時は工事現場の管理はルーズで、私のような小学生でも、勝手に工事現場に出入りすることができたのである。
橋げたはほとんど繋がっていた。だが道路部分で出来上がっているのは梁の部分だけで、車が走る道路は相変わらず空いたままである。その梁の上をどんどん歩いて行った。所々に鉄筋が飛び出していて、躓くと下に落ちるので私は出来るだけ梁の真中を歩いた。実際の橋の高さは八メートルほどだが、私には二十米ほどにも感じられたのである。私は歩けるだけ歩いて行った。丁度中洲の辺りまで来ると、それ以上は行けなかった。資材が行方を邪魔したのである。中洲におりる階段は作られていたが、まだ鉄骨が組み上がっただけで降りられない。
中興大橋の橋のたもとに転校した西門国民学校がある。西門国民学校はエリート校である。近所の商店街の台湾人の子供を除けば、ほとんどが大陸から来た高級官僚や軍人たちの子供であり、彼らは、西門国校―建国中学―台湾大学とエリートコースを目指していた。二年間中国語による学習から離れていた私を、父母はついて行けるかと心配した。ところが私は苦もなくついて行くことが出来たし、その上一学期の期末試験では、なんと全学年二番になったのである。一学年千人もいるマンモス校の二番である。たいしたものであった。これには両親も喜びご褒美として皮靴を買ってくれたのである。そうして学校生活は今度こそは順調に行くかと思われたが、ところが歴史の授業で「倭寇」の事を教わると、私は「倭寇」の同族であると攻撃の対象になったのである。
中国の沿岸を荒らし、放火殺人を働いたと言われる倭寇だが、明の遺臣の鄭成功を助けたとか、実は倭寇の一部は中国人であったなど、歴史の考証は様々である。しかし反日反共でやってきた国民党から見ると、倭寇は民族教育の最も良い材料である。ましてや台湾人は親日に偏っている。
倭寇の事を先生が講義すると、教室内で授業中にも拘わらず、幾人もの生徒が、
「倭寇」
「倭寇」
「日本倭寇」
「江村倭寇」
と、私に向かって叫びたてたのである。
事はその程度で済めばよかった。ある日曜日の午後、校庭で遊んでいると見知らぬ子供たち三人が近づいて来て遊びに誘ってくれたのだった。他のクラスの子供から遊びに誘われるのは珍しい。人数が足りないだけだろうと私は思った。彼らは北京語で話しかけて来た。これも珍しい、普段私とつきあってくれるのは台湾人の子供たちだった。
遊びは陣地を決めて、草や砂を投げあう戦争ごっこである、危険なものではなかった。二人ずつ二組に分かれて陣取り合戦をした。ところがしばらく遊んでいると、向こうから、突然玉子大の石が私をめがけて飛んで来たのである。そして石はまともに額に当たり、額はぱっくりと割れてしまったのだった。
鮮血が私の顔面を染めた。それを見て私の方に居た子供も向こうにまわり、
「倭寇」
「倭寇」
と、大声で罵りながら、三人で石を投げて来たのである。
私はホウホウの体で家に逃げ帰った。そして近所の外科病院で治療すると、七針も縫う大けがだった。
大陸から来た子供と言っても仲の良い友達もいた。
受験勉強でピリピリしていたクラスの中で、ただひとりのんびりとしている生徒が居た。成績はあまり良くなく、時々テストでビリに近くになることがあった。ところが彼は気にもしなかった。おかしなことに先生もその事で彼を注意することがなかったのである。
彼は私に接近して来た。体育の授業で二人で組む場合も、身長も体格が違う彼は、勝手に前の方から後ろへやって来て私と組むのである。クラスには溶け込めなかった私達はよく一緒に遊んだ。家に帰りたくないのか、放課後は何時までも校庭に居て私を引き止めた。彼は運動が嫌いなので、結局二人は話をするしかなかったのである。歴史や古典が好きで、水滸伝や三国志の話をすれば、彼の方がよく知っていた。だから私は大分彼から教わったのである。
一度家に連れて行ってもらったことがある。総統府のすぐ裏に彼の家はあった。屋敷は高い壁に囲まれており、その上には更に高圧電気が通った高さ二メートルほどの鉄条網が張ってあった。壁の端の方は見えないほどの大きな家である。城塞のような門には直立不動の憲兵が二人立っており、私たちが来ると小さな通用門を開けてくれた。公園のような庭の中に洋館が幾棟か建っていた。鬱蒼と茂った大木の影が作りだす涼しさは、まるで台湾ではない別世界のようである。車庫にはキャディラックが二台あり、更にもう一台あると言う。遊歩道のような道を歩いて行くと、一番大きな屋敷が現れた。彼の祖父が住んでいる家である。そして彼もその中に住んでいると言った。
女中が出てきた。彼の鞄などを受け取り、彼をどこかへとつれて行くと、応接間にひとりで待たされた。高い天井である。普通の家の二三階分はあるだろうか。そこから大きなシャンデリアがぶら下がっていた。不気味な模様の彫ってある壁が部屋の全体を包み、私はなるべくその模様を見ないように窓の外を眺めた。時間はのろのろと過ぎて行ったのである。
彼が着替えて来ると、色々な部屋を見せてもらった。彼の祖父の書斎や寝室など、それらの部屋の何れにもドアの後ろやデスクの下などに憲兵司令部へ直通のベルが設置されていた。押せば一、二分で憲兵隊が駆けつけると言う。更に外へ逃げる地下の通路もあると言った。それは総統府へも通じていた。彼の祖父は総統府秘書長、日本で言えば官房長官の職を長年務めていた。
ある日、めずらしく父が、子供全員を洋食につれて行くと言った。父は当時走り始めたタクシーを呼んで連れて行ってくれたのは、戦前から有名なレストランであった。
その店は二階にあり、玄関に着くと、白い背広に蝶ネクタイをしたボーイが、ドアを開けてくれた。私たちが入るとマネージャーがすぐ近づき父に挨拶をした。彼はしばらく父と話をしてから、私たちを窓側の大きなテーブルに案内した。広い窓からは、ロータリーを行き交う車を、眺めることが出来た。
父は、スープを全員に頼み、前菜にハムサラダを、メインディシュにはポークカツとステーキを一つずつ頼み、更にハムと卵のフライドライスを大盛りで注文した。料理が出て来ると、父は音を立てずにスープを飲む方法、フォークとナイフの持ち方やご飯はフォークの背中に載せることなどを教えてくれた。私にとっては、初めて洋食だった。
「おいしい」
と、言うと、
「そうだろう、ここの店は台北で一番おいしい店だから」
と、嬉しそうに父が笑った。
そして食後には、子供たちにはアイスクリームを、自分にはコーヒーを注文して、コーヒーが来ると、ゆったりと飲んだ。こんなに貫禄がある父を見るのは初めてであった。
学校からの帰りは中興大橋まで出て、淡水河の傍を歩いて帰った。ある日、沢山の大人に混じって、同年輩の男の子が一人投げ釣りをしているのに出会った。子供が一人で投げ釣りをしているのはめずらしい。大体道具を買うのも大変である。私が近づいて彼の釣った魚を見ると結構釣れている。ボラやウナギが魚篭の中に入っていた。感心して見ていると彼の方から話しかけてきた。お前も投げ釣りをするかと言うのである。私が出来ない、やった事がないと言うと、教えてやるから投げてみろと、自分の竿を貸してくれたのである。この辺りは海水と真水が交りあい、スズキなどの海の魚も釣れた。特にうなぎはよく成長しており、中には一米を超す大物もいた。
私は大人のマネをして遠くまでおもりを飛ばそうとするが、うまく飛ばない。力を入れて竿を振るが、錘は目の前に落ちた。彼が色々と教えてくれてやっと四、五メートル先まで飛ぶようになったのだが、四、五メートルでは大した魚は釣れない。だから彼は自分で投げて私にリールを巻かせてくれたのである。
リールは竹で作った直径十センチほどの、小さなつむぎ車のような形をしていた。それに人差し指を入れて、くるくると巻き上げる。私が巻き終ると十センチほどのハゼが数匹掛かっていた。そうして何回か私に釣らせてくれたのだった。そして釣り終わると、彼は翌日私の家に来て釣り道具を作ってくれると言ったのである。
翌日の午後の三時頃、彼は我が家にやって来た。持って来たのは、釣竿用の竹や、紐、タール等の材料であった。そして我が家の鋸とナタとナイフを借りて、器用に竹を削いで、リールの材料をこしらえていった。蝋燭の火で、タケヒゴを丸くしていると、父と兄が見て感心をした。する彼が私に、
「お前は日本人か」
と、聞いた。
「そうだ、父が日本人だ」
と、言うと、
「僕も日本人とのアイの子だ」
と、言ったのである。
彼は私とは逆で、母親が日本人で父親は台湾人であった。彼の家では、日本語は使われていなかったので、日本語は話せなかったが、しかし聞けばそれが日本語だと分ると言った。
リール作りが終わり、釣竿を作り始めた。幾つかの太さの竹をつなぎ合せた釣竿を作る。鋸で切られた竹の中をくり抜いたり、タールを塗って防水をしたり、タールの上に糸を巻いてリールや糸通しの輪をつけたり、とても子供とは思えぬ器用さである。あまりにも上手に作るから、兄が自分の分も作ってくれと頼むと、彼はよろこんで兄の分も作ってくれた。そして竿が出来上がると、歯磨き粉のチューブを叩いて錘を作ろうとした。鉛が高くて買えないから、彼は歯磨き粉の真鍮のチュウブを細工して、中に鉄のナットを入れて錘として使っていたのである。幸い我が家には様々な電気材料がある。投げ釣り用の大きな錘も、半田用の鉛を溶かせばすぐに出来た。彼は鉛をもらって大喜びである。そして彼の分も含め、様々な錘をこしらえたのであった。立派な道具が出来上がると早速連れ立って三人で釣りに出かけたのである。
それからは週に三回ほど釣りに誘いにくるようになった。彼は小学校の五年生で同じ学年だったが、家計を助けるために、週の内三日は近所の靴修理の師匠の所で手伝いをしていた。だから三日だけしか遊べなかったのである。
五年生が終わる頃、家で父と母とが言い争う声が時々聞えてきた。どうやら母が頼母子講で貸したお金を友達が返せなくなったらしい。母は頼母子講で知人から金を借りて商売をして成功したが、今度は逆に貸した金が戻らなくなったのである。借りたのは母の長年のマージャン仲間であった。彼女は商売に失敗したと言うが、博打で負けたとのうわさもある。
もうすぐ夏休みという頃、父と兄が日本に買い出しに出かけたきり戻って来なかった。暫くすると母も商売をやめて自分も日本に戻ると言った。そしてとりあえずは久仁子だけを連れて帰るが、残りは後で迎えにくると言ったのだった。残されたのは十五才の和子と十二才の私と、そして台湾で鏡子の代わりにと生んだ五才の妹の星子の三人である。私達は長沙街の家を引き払い、大叔母の家の屋根裏に預けられた。
屋根裏と言っても、大叔母の家の屋上のほとんどを占めていたので、二十畳ほどの広さがあった。部屋の半分には祖父が引揚げたの際に残して行った骨董がたくさん保管されていた。私は時々九谷焼の観音像などの瀬戸物や美人画の掛け軸を取り出して眺めたが、何の価値も見出せなかった。古鉄なら屑鉄屋でまだしも金になるが、瀬戸物や紙きれでは小遣いにもならなかった。
子供たち三人の時間はゆっくりと過ぎて行った。姉は何時も黙って本を読んでいた。屋根裏部屋には幸い日本に戻った家族が残した本が数十冊あった。姉と私は、「柴田錬三郎」や「山手樹一郎」などの時代小説や、以前にとっていた「中学時代」や「小学六年生」等の雑誌をとり出しては読んで行ったのだった。
全ての本を読み終わるとまた繰り返して読んだ。時には姉が歌を歌った。姉は歌が得意である。数年前、日本から来た小さい歌手として、烏来(ウーライ)の民族村で歌ったことがあった。姉は島倉千代子の歌が得意である。姉が歌い出すと私も歌った。時には学校の唱歌の本や、流行歌の本を一冊全部最初から最後まで歌うことがあった。妹の星子は、部屋で遊んでいなければ、従姉たちや祖母のところで遊んでいて食事の時に戻って来た。
母親と久仁子が日本に帰ってから、二か月ほどが経っても、父からも母からも何の連絡もなかった。
ある日私は、もう父たちは戻ってこないのだと思った。姉にどう思うと聞いてみるが、分からないと言う。だが私には父たちはもう絶対に戻らないという確信が湧いた。そして私たち三人は捨てられたのか知れないと思ったのである。今までは、日本に買いだしに行くと、大体数週間から一か月で戻ってきた。その間、品物を頼んだ人が数回家に来て帰りを確認した。だから周りにいれば何時帰るかは分るのだが、今度は誰も来なかった。大叔母の応接間にもそのような来客はなかった。そう確信すると私は父が残した材料箱を探した。そこには長さ二十センチと五十センチほどの鉛の水道管と三十センチ四方で、厚さ一センチもある銅板があるはずだった。これらは貴重な物である。物資が欠乏していた当時、鉛と銅は相当な高値で取引されていた。だから父はこれらを大事にとって置いたのだった。
私はまず二十センチの鉛管を屑鉄屋に持ち込みそれを売った。屑鉄屋は何も聞かずに買い取ってくれた。二十センチほどの鉛管でも十台湾ドル以上の金になった。今なら数千円位だろうか。そして大分経ってから私は残りの鉛管を売った。その後また銅板を持ち込み売った。銅板は百ドル近い金額だった。それを小遣いにして、私はまた町へと出歩くようになったのである。
そんなある日、釣りの友人が、
「もう一緒には釣りが出来ない」
と、言った。
「なぜだ」
と、聞くと、
「家が貧乏のため、これからは学校をやめて靴職人の師匠の元に弟子入りをして本格的に靴の作り方を学ぶのだ」
と、言うのである。
だからこれからは一緒に釣りも出来ないと言うのであった。私は遊んでくれる友達さえもいなくなってしまったのだった。
それから少し経ったある日、私は彼の家を訪ねてみた。その前にも一度家の前を通ったことがあるが、中が暗くて誰も居ないようだったのでその時は素通りした。今度は彼が居た。
私は四年生の時に褒美にもらった皮靴を持って行った。縫い糸がほつれて、底がすり減っていたからそれの修理を頼んだのである。
彼は家の土間に座って靴を縫っていた。本当に狭い家で、二畳ほどの土間と同じ位の広さの寝室の二間だけの家だった。照明は暗く、靴を縫っている彼の手元がよく見えなかった。
私は靴を渡して彼に修理を頼んだ。
「この靴小さいんじゃないか」
と、彼は私の足を見ながら言った。
「大丈夫だ。まだ履ける」
「そうか」
と言って、彼は元の糸をほどきだした。
彼のお母さんが出て来て、スツールに座り、私に話しかけた。日本人が引き揚げの時、何かの理由で、彼女は台湾人の養子になったそうだ。そしてそれからとても苦労したと言う。もし自分の親が、自分を見捨てないで日本につれて帰ってくれたら、こんな暮らしにもならなかったのに、と長々と愚痴を言い続けた。だから私は友達と話すことが出来なかったのである。友達は話を聞いているのかいないのか力を入れて靴の踵を剥がしていた。
靴の修理が終わると、十ドル札を出して、修理代として彼に渡そうとした。彼は修理代は普通でも二三ドルだし、いらないと言うのであった。だが、おばさんが横から手を出して、さっとそのお金を受け取った。どうせ彼に渡してもおばさんに渡すだろうから、私はそれで良いと思った。だが彼があのような暗い部屋で一日中働いているかと思うと、とても悲しかった。
夏休みが終わり、六年生に上がる九月が来たが、私は学校には戻らなかった。学校からも何の問い合わせもなかった。私たちが長沙街を引き払った事さえも学校は知らないだろう。そうして学校との関係は切れたのである。
ある日、台風が襲来した。台風はトタン張りの屋根を吹き飛ばすかのように吹いた。部屋全体が激しく震え、妹は怖がり、姉の傍から離れようとしなかった。だが私は、家を揺がす風と雨の音を聞きながら、明日の事を考えていた。
この台風は大きいから明日淡水河へ行けば色々な物が流れているだろう。前にも台風が来た時、淡水河には様々な物が流れてきた。死んだ魚や大きな冬瓜、それに水膨れした豚の死体まで。一度は人間らしき物を見た。でも確かめられなかった。
翌朝、淡水河に向かうと長沙街の路の上まで水が溢れていた。水深が二十センチほどあったので、私はサンダルを履いたまま水門まで歩いて行った。水門は閉じられており、下には土嚢が積んである。堤防に上がると水は堤防の下、三分の一を覆い隠していた。以前は増水しても水門は閉じられたことはなく川岸まで近づけたから、今度の台風はすごいぞと思ったのである。
水門から出られないので、私は堤防の上を中興大橋へと歩いて行った。河には色々な物が浮いて流されていた。大きな草の塊や野菜や鶏、豚の死骸など、牛の死骸も見えた。時おり突風が吹いて私は飛ばされそうになると堤防の上で四つん這いになった。そして堤防の上を歩いて行くのは危険だと思い、堤防を降りて堤防の内側沿いに歩いて行った。
中興大橋のたもとに着くと橋は封鎖されていた。開通してはいたが、この日は遮断器の様な物が置かれており、橋の上は消防車等が数台見えるだけだった。上流はと見ると、河が溢れており、大漢渓と新店渓が交わる辺りでは、濁流が何時もより二三米も膨れ上がり、まるで滝のように落ちて来たのである。
中洲がある辺りに着くと、中洲は完全に水没していた。中洲に降りるコンクリートの階段は半ば水に浸かっており下は見えなかった。その階段の上で、沢山の人が何やら大声を上げて動いているのが見える。そこからは沢山のロープが河に向かって投げいれられ、何かを水から引上げようとしているのである。見れば荒れ狂う濁流の中に人が居る。人はロープの先に結びつけられた浮き輪にしがみつき、階段まで引いてもらい、何とか階段にしがみつこうとしているのである。しかし流れがきつ過ぎて、階段の近くまで来てもなかなか階段の手すりをつかむことができなかった。数人が手すりにつかまり助かったが、数人は力尽きてそのまま流されて行った。
すると橋の向こうに居た兵士が、こちらに向かって大声で叫んだ。全員が彼が指さす方向を見ると、上流から、軍隊の上陸用舟艇のような平底の船に、沢山の人が乗って流されてくるのである、しかも数隻もである。
船はどんとんと近づいてくる。幾隻かは階段の向こう側をそのまま流れ去る。だが一隻が階段の傍を通り過ぎる際、数人が競って階段に飛び移った。一人、二人は何とか階段につかまったが、数人は水に落ちて、そのまま濁流にのみ込まれて行く。その人達を救おうと、浮き輪のついたロープが次々と投げこまれて行くが、しかし水流があまりに速くてうねりが大きかったので、誰ひとり浮き輪やロープを掴めた人はいなかった。そして残りの船は淡水の海へと、疾風のように流されて行ったのであった。兵士がまた叫んだ。今度も船が流されてきた。今度も必死に階段に近づこうとする。船が階段の近くまで来ると、突然階段の下から悲鳴が聞こえた。グシャ、船はまともにコンクリートの階段に激突したのである。そして、階段の上にいた救助の人たち数人をも巻き添えにして、濁流の中へと消えて行ったのだった。
一九六一年の九月十一日、台湾北部を襲った台風パメラは、最低気圧九一○ミリバールと言う猛烈な台風であった。台風は太平洋上で成長し、そして台湾北部の山脈にぶつかると、淡水河の水源地に豪雨をもたらした。
そこから流れ出た水は一気に、台北近郊の新店を襲った。新店は淡水河の源流新店渓が大きく蛇行する場所である。当時、出水を予想して軍隊が住民の避難を行っていたが、そこに怒涛のような水が押し寄せたのである。そして新店地域を覆い尽くした水は、救助していた船舶をも押し流して、下流の淡水河へと流れ出た。
死者百九十一名、負傷者千八百四十七名、家屋の全壊一万二千三百四十九棟、半壊二万六千四百四十二棟とパメラの被害は甚大なものだった。このような洪水を防ぐために、大漢渓上流では石門水庫が建設されてはいたが、ダムが完成したのは台風の三年後の一九六四年の六月の事である。更に新店渓のダムが完成するのは一九八七年まで待たねばならない。
淡水河に途中で流れ込む河として基隆河がある。基隆河は標高五百六十米の平渓山から流れ出る。全長八十六キロと新店渓よりも長い。平渓山は台湾で最も雨が多い地帯である。更に基隆河はクネクネと蛇行しながら流れる河で水害が絶えない河である。基隆河はその名称になった台北市北東の基隆市を経由して台北市の北側を通り抜けて、淡水河のちょうど真ん中辺りで淡水河へと流れ入る河である。
台北市の北東に位置し、太平洋に面する基隆市は台北市の海の玄関である。台湾北部の海運による貨物はここから出入りする。現在は与那国島経由、石垣島行きのフェリーも出ている。
一九六二年の五月。屋根裏部屋に残されていた三人は、従姉につれられて基隆港にやって来た。母が日本で落ち着いたからと、呼び寄せたのである。
基隆港の岸壁には大きな汽船が停泊していた。乗客も貨物をも運ぶ貨客船である。初めて見る巨大な船に私はわくわくした。この船に乗って日本に戻るのである。
二段ベッドが二つある船室に私たち三人を入れると従姉は船を降りて行った。残された三人はそれぞれのベッドを選んで、自分の荷物を片づけてから甲板へと出た。台湾の景色を見ておこうと思ったからである。いよいよ台湾ともお別れである。はしゃぐ私と妹に比べて、姉は静かだった。
夕方、船は基隆港を出発した。翌朝早くに起きて外に出ると台湾の山並が見えた。中央山脈の三千米級の山々だろう雪が見える。船は直接日本には向かわずに台湾海峡を南下していた。台南港でバナナを積むためである。そして更に南下して高雄に入り、そこで更に乗客を積んでから、台湾とフィリッピンの間のパーシー海峡を抜けて、やっと北上したのである。
神戸港に着いたのは基隆を出てから一週間が経っていた。小雨降る肌寒い神戸港の大桟橋で、母は船上の三人に向かって手を振っていた。
(了)
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