翻訳の歴史 (Quoraに書いたもの)

翻訳の前に先ず言語をスイッチする通訳から説明します。
古代から隣の部族との交渉の必要性から部族の女を嫁がせて嫁ぎ先で子供を生ませました。この事は社会的に考えられた事ではなく自然の優性遺伝の影響があるようです。チンパンジーにもこの習性がありますから人類発生以前の本能かも知れません。
隣の部族へ自分たちの部族の女性を嫁がせるのは台湾の原住民にもよく見られる婚姻関係です。
たとえ首狩り族同士で激しく敵対しているタイヤル族のグループ間でも、部族が違えば言葉が通じないことははザラにあります。それで何らかの交渉が起こる可能性がある、例えばタイヤル族で最も開けている埔里の埔社蕃と山向こうに住んでいる最も凶暴と言われた土瓜蕃でもこのような姻戚関係が結ばれていました。
女性たちは必要に応じて通訳や道案内になり、時には商業にたずさわって両者間のさまざまな仲介をします。そして子供が成長すると更に複雑な任を担います。男の子は言語のエキスパートになり争いがあれば交渉の任にもあたります。
このような口頭での言葉のスイッチングは小さなグループ間の間はさほど複雑ではありません。またその心的な理解も地方と個人に根付くものですから大規模な共通言語は不要です。ここでなら心がほぼ通じ合っているからです。
あまり言葉が通じない外国人同士の婚姻関係がうまく行くのもこの辺りの以心伝心的コミュニケーションで事足りるからかも知れません。
***
ところが翻訳となるとそう簡単ではありません。
なぜなら翻訳には双方の言語に文字がありフルセットの言語が文語化できる条件が揃っている必要があるからです。通常部族段階ではありえません。
文字が出現するのは征服帝国の出現とほぼ同時だと言われています。征服帝国とは部族間の連合による大部族の集団ではありません。この大部族集団のコミュニケーションも口頭の通訳で事足りるからです。そこには第三者の文化の強要と規則の順守の必要がないからです。
文字が中国で出現するのは殷の中期以降です。より開花するのが後期です。殷は中期以降徐々に周辺の異民族を取り込んで行きます。つまり征服して自分たちの土地を広げて行くのですがその時に多くの占いを行いました。
占いは最初は占い師が占ったのですが、後には占い師の占いに対し判断は王にゆだねられるようになりました。占い師は占いの精度と王の判断の正しさを高めるために占った趣旨、亀甲の割れ目、王の判断そしてその結果などを記録する必要が生まれました。
そこで当初は写真のような東巴文字のような象形文字を占い師個人で使っていたと思います。
しかし象形文字の解読は困難です。かつ占い師個人の判断で如何ともなりますので王の記録としては十分には役に立ちません。そこで占い師、王、学者たちが集まって長年の推敲を重ねてより抽象的で整理された甲骨文字のような客観的使用にも耐えうる文字ができたと思われます。
その時期は殷の武丁の時代およそ3250年前です。
しかし甲骨文は占い師や下で働く書記の出身地や学問のレベルの違いもあり文法的にも難解で客観的に第三者に伝えるのは難しかったようです。
***
文字が整理されて文章的にも推敲されて第三者にも分かりやすくなるのは殷が滅びて周が興ってからです。
周は殷と違って征服王朝でした。殷が征服したのは周辺の小さな国でしたが、周は異民族の殷を征服しました。また殷の打倒のために殷よりか東にある部族とも連合しました。そのためにコミュニケーションの需要が格段に増しました。
殷の時代に殷とコミュニケーションしていた部族たちはそれなりに甲骨文を知っていたでしょう。だから周の殷打倒後の安堵の約束などは甲骨文をもとにした文章であったと思われます。
周はチベット族の国家です。文化的には殷よりも遅れていたと言われています。それで周は殷を打倒後に殷の文化を吸収します。ところが殷は東夷系の民族でした。言語はオーストロアジア系の可能性があります。一方周は西の民族ですから言語が違ったはずです。しかも文字を持っていませんでした。
日本や朝鮮が漢文を結局漢文のまま受け入れざるを得なかったように周も原則それに従い、口頭で誰かが訳したのでしょう。それをチベット語の順に甲骨文字を使って書いたかどうかは分かりませんが、それが翻訳の始まりではないでしょうか。日本語のような返り点を工夫したかも知れません。
しかし周も前期の金文を見る限りは殷の言葉を継承していますが西周後期にはチベット臭がしてきます。
その後中国は春秋時代や戦国時代に入り各地で強国が出現します。語る言語は漢・チベット・ビルマ語系、オーストロネシア語系、オーストロアジア語系あるいはアルタイ語系と様々ですが文語に於いては統一に向かいます。
その結果周系のチベット系の漢語シナ・チベット語が北西に広がり東南にはオーストロアジア系の漢語が広がったと思われます。そして各地方の翻訳者の母語から共通語への推敲によって表現の統一性が増します。
***
翻訳が言語体系全体のコードスイッチングと定義すると、さらに一方進んで同系言語間の翻訳は該当しないと考えられます。
同系語間は言語交流があるかぎり、文明先進国の言語が被さってしまうので真の翻訳のコードスイッチングとは言えないような気がします。英語でもフランス語がそのまま使われるケースが多々ありますからそこに翻訳という作業の定義の難しさがあります。
しかしそれらしき事が大規模に起きたのはインド仏典の漢訳ではないでしょうか。
西暦148年安息国の王子安世高は洛陽に来て多くの仏典を漢語に訳しました。歴史的にはこれが文字を持った異言語同士の翻訳の始まりではないでしょうか。
音韻言語であるサンスクリットから視覚言語の漢語に訳す作業は並大抵の能力の持ち主ではできない事でした。だから彼らには最高の翻訳者の称号である三蔵法師が与えられました。
日本人でも興福寺の僧霊仙が三蔵法師の称号が与えられました。彼が日本人翻訳者で始祖と呼ばれる資格を持つ人と言えますが漢訳です。
仏典が日本語に訳されるのはもっと後かも知れません。我が家にある法華経の漢文から日本語への訳は序文に明治44年とありました。

コメント

このブログの人気の投稿

日本語能力試験とTOEICの関係

淡水河

愛染祭り